ヨルダン内戦
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ヨルダン内戦(ヨルダンないせん)とは、1970年にヨルダン・ハシミテ王国において発生した、ヨルダン政府とパレスチナ解放機構(PLO)との内戦。9月に発生したことから黒い九月事件(ブラック・セプテンバー事件)と呼ばれることもある。
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[編集] 事件の推移
[編集] 背景
ヨルダンは中東において比較的穏健的現実路線を取っていた王国であったが、ヨルダン川西岸地区を占領するイスラエルと対立しており、国内に多数のパレスチナ難民を抱えていた。ヨルダンにとって3日間で敗北を喫した第三次中東戦争終結後、ヨルダン政府はPLOを支援してヨルダン川を越境攻撃したが失敗、以後ヨルダンはイスラエルに対して強硬手段をとることを諦め、現実路線に移ろうとした。
一方、首都アンマンのPLO指導部は、寝返ろうとしているヨルダン政府を転覆し、新生パレスチナ国家を樹立するべく各地でヨルダン政府軍・警察と戦闘を繰り広げ始めた。さらに、資金集めと称して銀行を襲撃したり、パレスチナ難民から不当な税金を取り立てたりと、次第にヨルダン人からもパレスチナ難民からも嫌悪される存在に堕ちていた。
しかし、フセイン国王が激怒し、PLO排除を決意したのは、1970年9月6日に発生したPLOの過激派PFLPによる連続ハイジャック事件だった。
[編集] ハイジャック事件
9月6日、PFLPとPLOに賛同するアラブゲリラが5機の旅客機を同時にハイジャックした。実行犯が殺害されたイスラエルのエル・アル航空機以外の4機の内、3機はヨルダン国内のイギリス軍用基地に、パン・アメリカン航空のボーイング747がエジプトのカイロに着陸した。PFLPは英国、ドイツ、スイス、イスラエルに対して、投獄されたメンバーの釈放を要求した。9月12日、英独スイス3国は要求に応じて釈放、PLFPも人質を解放したが、無視したイスラエルへの不満として全ての旅客機を爆破した。
国内にPLO本部を置くヨルダンは窮地に追いやられ、フセイン国王は激怒して行動を決意した。
[編集] 戦闘勃発
9月14日、フセイン国王は国内に戒厳令を敷き、国王親衛隊のベドウィン部隊を中心とする政府軍がアンマンに進出し、PLO部隊への攻撃を開始した。戦闘はヨルダン各地に波及し、圧倒的な軍事力を持つ政府軍にPLOは敗走を重ねる。しかし、PLO支援に積極的だったシリアは陸軍をヨルダンに侵入し、PLOに加勢した。
このままではヨルダンとシリアの戦争に発展してしまうことは明らかであった。そこで事態の展開の後、アメリカ合衆国は空母部隊を地中海のイスラエル沖に派遣し、ヨルダンの行動を支持すると共に、軍事介入したシリアに対する牽制とした。イスラエルは陸軍部隊をゴラン高原に展開し、シリア軍に対して警戒を強めた。当初はこのヨルダンの混乱に乗じてイスラエルが軍事作戦を展開する動きもあったが、その計画は見送られた。
結局、エジプトのナセル大統領がヨルダン・シリア・PLOの仲介に入り、PLOの受け入れを表明したレバノンへ本部を移転させるとして停戦となった。この結果、PLOは指導部と主力部隊をレバノンに移した。
[編集] 変革と影響
ヨルダンはPLOを国内から追放できたことによって国内の安定を取り戻した。しかし、アラブ連盟の総意で設立されたPLOを攻撃したことで、連盟各国から強い非難を浴び、アラブ社会から追放されてしまう。
仲介の大役を果たしたナセルは、直後の9月28日に心臓病によって52歳で急死する。エジプト革命と近代化の立役者を失い、エジプト国民だけでなくアラブ全体が動揺した。変わって大統領となったサダトはナセルの同志であったが、就任当初からイスラエルとの講和を構想していた。
シリアでは11月にアサドの指揮によって空軍クーデターが勃発する。ヨルダンへ侵攻したシリア軍は陸軍のみであったが、このとき空軍司令官であったアサドはアタシ大統領の出動命令を拒否した。アサドはPLOの姿勢に懐疑的であり、就任当初からPLOに好意的なアタシ政権に対する反発があったとされている。この後、アサドは大統領に就任して、PLOとは対立するパレスチナ政策を繰り広げていく。
レバノンは多宗教国家であったが、ここにパレスチナ難民を引き連れたPLOがやってきたことによって、それまでの宗教バランスが崩れた。調和の崩壊は対立と衝突を生み、1975年にキリスト教武装勢力がPLOを襲撃したことからレバノン内戦が勃発する。
PLFPの一部メンバーはこの事件を恨み、9月に起こった事件として「黒い九月」ブラックセプテンバーと呼び、自らのグループ名とした。彼らは1972年のミュンヘンオリンピックにおいて、イスラエル選手団を襲撃、多数を殺害するいわゆる「ミュンヘンオリンピック事件」を起こす。