レイテ島の戦い
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レイテ島の戦い | |
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戦争: 太平洋戦争 | |
年月日: 1944年10月20日~1945年8月15日 | |
場所: レイテ島 | |
結果: アメリカの勝利 | |
交戦勢力 | |
日本 | アメリカ |
指揮官 | |
山下奉文大将、鈴木宗作中将 | ダグラス・マッカーサー大将、クルーガー中将 |
戦力 | |
第16師団、第102師団、第30師団、第26師団、第1師団、第68旅団 84,006名 | 第7歩兵師団、第96歩兵師団基幹、第1騎兵師団、第24歩兵師団基幹他 104,500名 |
損害 | |
戦死79,261名 | 戦死3,504名 戦傷11,991名 |
レイテ島の戦い(れいてとうのたたかい)は、1944年10月20日から終戦までフィリピン・レイテ島で行われた、日本軍とアメリカ軍の陸上戦闘のことを言う。日本軍は最初、フィリピンの決戦はルソン島限定で他の地域では行わない方針だった。ところが台湾沖航空戦で日本軍が大戦果をあげたことを信じた日本軍はレイテ島に上陸した米軍を「敗残兵」と判断し、作戦を急遽変更してレイテ島でこれを迎え撃つという方針を打ち出した。フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官・山下奉文大将はこれに反対した。すでにルソン島での戦に備えて作戦準備が進められていたし、何より兵を送る輸送船が足りなかった。山下司令官はさきの台湾沖航空戦の戦果についても疑問に思っていた。だが、ついにその方針が覆されることはなかったのである。
山下司令官の危惧は現実なものになった。台湾沖航空戦で失われたはずの米機動部隊が健在で逆に300機以上の航空機が失われていた。10月20日に上陸してきた米軍はかつて「アイシャル・リターン」という台詞を残してフィリピンを去ったダグラス・マッカーサー大将が率いる兵員10万名(最終的に20万)に及ぶ大部隊であった。
目次 |
[編集] 決戦前夜
1944年3月 第14軍、大本営の直属(1942年6月~)から再び南方軍に編入される
4月 南西太平洋方面連合軍司令官ダグラス・マッカーサー大将、ニューギニア・ホーランジアにフィリピン奪還司令部を置く
7/24 大本営、捷号作戦準備を決定し、南方総軍、関係軍司令官に下令する
7/28 第14軍から第14方面軍に改編される
8月下旬 第14方面軍司令官黒田重徳中将が更迭される
9/15 米統合参謀本部、マッカーサー将軍に対し10/20にレイテに上陸、ニミッツ提督はこれに協力ーと命令を下す
9/21、22 米機動部隊、マニラを空襲。日本軍の被害甚大。対日協力のフィリピン大統領ラウレル、対米英宣戦を布告
9/28 満州第一方面軍司令官山下奉文大将、満州牡丹江から軍用機で立川へ。3年ぶりに日本の土を踏む
9/29 山下大将、大本営に出頭。翌日、宮中に伺候する。山下大将、第14方面軍司令官に就任する
10/5 山下大将、軍用機で所沢飛行場を飛び立つ。翌日夕刻、マニラ市に到着
10/7 山下大将、参謀長をはじめ、多くの参謀を若手に入れ替えるなどの第14方面軍司令部の再編成を行う。新参謀長に武藤章中将が任命される(この時、武藤は在スマトラの近衛第一師団長の職にあった。武藤がマニラに赴任するのは10/20の夜である)
10/11 山下大将、隷下兵団長と会同し、作戦計画を明示する 米機動部隊(ハルゼー提督)、ルソン島北部アパリ飛行場を空襲。翌日、台湾南部を空襲する
10/12~15 台湾沖航空戦
10/15 第26航空戦隊司令官有馬正文海軍中将、96機率いてフィリピン・ダバオ基地を出撃。台湾沖で戦死する
10/17 レイテ島周辺に台風接近。米軍、レイテ東方海上に集結。部隊は戦闘艦艇157隻、輸送船420隻、特務艦船157隻、兵力は20万名以上である。 米軍、レイテ湾口の小島スルアンに上陸。スルアン島の日本軍守備隊全滅
10/18 米軍、レイテ島内の日本軍の重要飛行場を空襲する
10/19 陸軍参謀本部、捷一号第一次発動を下命する。同日午後、連合艦隊は捷一号作戦発動を下命する
10/20 同日午前10時、米軍、艦砲射撃支援のもとにレイテ島タクロバン、その南方30キロのドラッグに上陸開始
[編集] 比島(フィリピン)防衛の作戦要綱とその矛盾点
第14方面軍司令官山下大将が、大本営から支持された比島防衛の作戦要綱は次のとおりである。
1 第14方面軍司令官は、南方軍司令官に隷し全比島の防衛に任じる。このため、米軍の比島侵攻には、まず南部比島に予想し、この際には海軍、空軍をもって決戦とする。次に米軍がルソンに来攻する場合は、陸軍をもって決戦する。
2 全比島の治安維持に関し、必要に応じ、比島政府に協力する。但し比島政府との交渉は、南方軍司令官及び大本営もこれに当る。
問題は1である。第14方面軍司令官は全比島の防衛に任じると書かれてあるが、実際は違っていた。それは日本軍の指揮系統の統一が図られていないからである。陸軍と海軍とが完全に独立していたことはいうまでもなく、同じ陸軍内でも第14方面軍の上部機関である南方軍がマニラにあり、方面軍司令官は、第4航空軍司令官、第3船舶司令官と同じ立場にあって、南方軍総司令官寺内寿一元帥の隷下にあった。つまり、第14方面軍司令官は全比島の防衛という任務にもかかわらず、同じ陸軍航空や船舶部隊を指揮できなかったのである。作戦考案一つにとっても、海軍司令長官、航空司令長官、船舶司令官と協議して、その賛同を求め、そのあとで寺内元帥の許可を得なければならなかった。 次に米軍がルソンに来攻する場合は、陸軍をもって決戦するという一文である。フィリピンは島国のために米軍がどこから侵攻するのか難しい地域であった。 捷一号作戦は、米軍の侵攻をフィリピン中南部と予想して、その侵攻地点で航空・海軍の総力をあげて決戦を行い、上陸した残敵を所在部隊が叩くというものであった。 陸軍の決戦場はルソン島のみに限定されていた。山下大将はそれを自ら確認した上で準備を進めていた。ところが海軍の台湾沖航空戦の虚報に乗ってしまった陸軍は「レイテ決戦」の転換を図った。そして寺内司令官は作戦を根底から覆す命令を山下大将に下した。 山下は反対した。戦力乏しく、制空権が奪われている以上、レイテへ兵員、物資を輸送するのはほとんど不可能に近いからである。マニラからレイテ島までの距離(約730㌔。これは東京-岡山と同じ)のことを考えれば山下の判断は適当であった。 第14方面軍参謀たちも大本営、南方軍のレイテ決戦論に反対した。 10月22日、寺内元帥は山下司令官を南方軍総司令部に呼び、レイテ決戦反対を主張する山下を叱り飛ばし、『元帥は命令する』と一言述べた。山下はもう何も言えなかった。 結果、南方軍命令が下された。
一、驕敵撃滅の神機到来である。
二、第14方面軍は海空軍と協力し、なるべく多くの兵力を以ってレイテ島に来攻する敵を撃滅せよ。
こうしてフィリピン攻防戦のターニング・ポイントであるレイテ決戦が決定されたのであった。
[編集] 米軍上陸
レイテ島を守備管轄していたのは第35軍(司令官・鈴木宗作中将)であった。第35軍は後方のセブ島に司令部を置き、主力をミンダナオ島に配置していた。レイテ島を守備していたのは隷下の第16師団(司令官・牧野四郎中将)のみであった。 10月20日午前10時、米軍は米第10軍団の第24師団(司令官・アービング少将)、第一騎兵師団(司令官・マッジ少将)がレイテ島タクロバンに、続いてその南方約27キロのドラッグに第24軍団の第7師団(司令官・アーノルド少将)、第96師団(司令官・ブラッドレー少将)が上陸を開始した。 第16師団は兵士約2万名を擁していたが、わずか1時間の戦闘で奥地のジャングルへ後退した。これはサイパン島の戦いのような「水際死守」で多くの兵士が緒戦で失った苦い戦訓からジャングルでの抵抗線が日本軍の作戦だった。 午後3時、南西太平洋方面連合軍司令官ダグラス・マッカーサー大将は第3次上陸部隊とともに膝まで水に浸かりながら、タクロバン海岸に上陸した。それはマッカーサーがコレヒドール島を脱出してから2年7ヵ月後のことであった。 夕刻までに米軍は兵員6万名と10万トンの車両、物資をレイテ島に揚陸した。
[編集] リモン峠の戦い
[編集] 飛行場奪還作戦
[編集] レイテ島の戦いにおける日本軍の戦死者数
第35軍直轄部隊 参加者 10,932 戦死者 10,682
軍司令官 鈴木宗作中将戦死
第1師団 参加者 13,542 戦死者 12,742
セブ島へ 750名が転進、片岡董(ただす)中将生還
第26師団 参加者 13,778 戦死者 13,158
師団長 山県栗花生(つゆお)中将戦死
第102 師団の一部 参加者 3,142 戦死者 2,822
師団長 福栄真平中将、戦後戦犯死刑
第68旅団 参加者 6,392 戦死者 6,302
旅団長 栗栖猛夫少将戦死
その他の部隊 参加者 17,612 戦死者 15,527
30師団(両角業作中将)の一部、歩兵5連隊、海軍部隊等