ローランド・ラッツェンバーガー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
F1での経歴 | |
国籍 | オーストリア |
活動年数 | 1994 |
所属チーム | シムテック |
出走回数 | 1 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1994年パシフィックGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1994年パシフィックGP |
ローランド・ラッツェンバーガー(Roland Ratzenberger, 1960年(注)7月4日 - 1994年4月30日)はオーストリア出身のレーシングドライバーである。
- (注)レーシングドライバーとしての経歴を若く見せるため、自身は1962年生まれであるとのアナウンスをしばしばしていた。
目次 |
[編集] F1以前
5歳のとき観戦したレースがきっかけでレーシングドライバーになることを決意した彼は、父の勧めで入った大学を中退してレース活動を開始(このことで父親との関係が悪化、その溝は生涯埋まらないままだったという)。1990年に来日、全日本ツーリングカー選手権(JTC)にBMW・M3で、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)にトヨタから参戦したほか(共に1992年まで)、1992年・1993年には全日本F3000に参戦するなど、日本のレース界との関わりは深い。
[編集] F1
1994年、下位チームのシムテック・フォード、しかも5戦のみの契約(序盤4戦と日本GP)という状況とはいえ、念願のF1のシートを獲得。岡山県のTIサーキット英田で行われた第2戦パシフィックGPで予選を通過。思い出の日本でついにF1デビューを果たし、11位で完走。
しかし続く第3戦サンマリノGP、4月30日に行われた予選二日目にてタイムアタック中、高速ビルヌーヴコーナー手前でフロントウイングが脱落。コントロールを失い、マシンは時速310キロでコンクリートウォールに激突した。病院に搬送されたものの、約1時間後の現地時間14時14分、サーキットに訃報が届いた。レースウィーク中では、1982年のリカルド・パレッティ以来12年ぶりに発生した死亡事故であり、F1マシンドライブ中でも1986年のエリオ・デ・アンジェリス以来8年ぶりとなった。
事故の衝撃は、強度の高いカーボンモノコックに穴が開くほどのものであり、ラッツェンバーガーの体が露出してしまっていた。
突然ウイングが脱落した要因については、事故の直前の周に一度コースアウトしており、そのときにフロントウィングにダメージを受けていた可能性が高いと言われている。
[編集] 事故の影響
当時はカーボンモノコックの強度の高さから、「もうF1で死亡事故が起こることはない」とまで言われていたため、死の衝撃は大きかった。この年はレギュレーションの大幅改正により、開幕前から安全性に疑問の声が上がっていた。開幕前のテストでは、J.J.レートが負傷し2戦を欠場、開幕戦後、ジャン・アレジも同じくテスト中の事故で負傷し、その後の2戦を欠場している。
ラッツェンバーガーの事故が起こったサンマリノGPでは、前日にルーベンス・バリチェロが大クラッシュで鼻を骨折、決勝ではアイルトン・セナの死亡事故が発生。安全神話は完全に崩壊し、呪われた週末と言われた。その後も第4戦のモナコGPフリー走行の事故でカール・ヴェンドリンガーが意識不明の重体に陥り、モナコGP後のテストでペドロ・ラミーが事故を起こし、脚に全治1年とも言われた重傷を負う。
さらに続くスペインGPの予選でも、ラッツェンバーガーに代わってチームに加入したアンドレア・モンテルミーニが両足を骨折する事故を起こすなど、重大事故が多発。安全性が軽視されていた状況が浮き彫りになり、レギュレーションがシーズン途中で変更される事態となった。
ミカ・サロと日本時代から大変仲が良く、サロはラッツェンバーガーから採って息子のサードネームにローランドと名付けている。
恋人カティーシャとは結婚目前だった。
没年となった1994年は、ル・マン24時間レースにサード・トヨタから出場する予定だった。その年のマシンには、実際に出場したエディ・アーバイン、マウロ・マルティニ、ジェフ・クロスノフの三人の名に並び、ラッツェンバーガーの名もプリントされていた。
[編集] F1での全戦歴
- 1994年 (シムテックS941・フォード)
- 出走数 : 1
- ベストグリッド : 26位
- 決勝最高位 : 11位
- 生涯獲得ポイント : 0
[編集] 関連項目
カテゴリ: オーストリアのF1ドライバー | 1960年生 | 1994年没 | スポーツ関連の人名スタブ項目