三方領知替え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三方領知替え(さんぽうりょうちがえ)とは、江戸時代に徳川幕府が行った大名に対する転封処分の手法のひとつ。大名3家の領地を互いに交換させることを言う。例えば、領地aを持っている大名家Aを領地bへ、領地bを持っている大名家Bを領地cへ、領地cを持っている大名家Cを領地aへ同時に転封すること。「三方領地替え」「三方所替え」「三方国替え」とも書く。江戸時代を通じて何回か行われている。4家が関係した「四方領知替え」の例もある。
目次 |
[編集] 慶安2年(1649年)
陸奥国白河藩主榊原忠次を播磨国姫路へ、姫路藩主松平直矩を越後国村上へ、村上藩主本多忠義を白河へ転封したもの。6月9日に発令された。
[編集] 享保2年(1717年)
伊勢国亀山藩主大給松平乗邑を山城国淀へ、淀藩主戸田松平光慈を志摩国鳥羽へ、鳥羽藩主板倉重治を亀山へ転封したもの。11月1日に発令された。
[編集] 享保4年(1719年)
常陸国笠間藩主井上正経を陸奥国平へ、平藩主内藤政樹を日向国延岡へ、延岡藩主牧野貞通を笠間へ転封したもの。3月19日に発令された。
[編集] 寛保元年(1741年)
越後国高田藩主久松松平定賢を陸奥国白河へ、白河藩主松平明矩を播磨国姫路へ、姫路藩主榊原政永を高田へ転封したもの。11月1日に発令された。
[編集] 延享3年(1746年)
上野国館林藩主太田資俊を遠江国掛川へ、掛川藩主小笠原長恭を陸奥国棚倉へ、棚倉藩主越智松平武元を館林へ転封したもの。9月25日に発令された。
[編集] 宝暦12年(1762年)
肥前国唐津藩主土井利里を下総国古河へ、古河藩主松井松平康福を三河国岡崎へ、岡崎藩主水野忠任を唐津へ転封したもの。9月晦日に発令された。
[編集] 文化14年(1817年)
遠江国浜松藩主井上正甫を陸奥国棚倉へ、棚倉藩主小笠原長昌を肥前国唐津へ、唐津藩主水野忠邦を浜松へ転封したもの。9月14日に発令された。唐津藩の義務である長崎見廻役を嫌って幕閣入りを熱望した水野忠邦が、各方面に贈賄して実現させたという。念願かなった忠邦は、後に老中首座にまで上り詰め、天保の改革を推進する。
[編集] 文政6年(1823年)
陸奥国白河藩主久松松平定永を伊勢国桑名へ、桑名藩主奥平松平忠堯を武蔵国忍へ、忍藩主阿部正権を白河へ転封したもの。3月24日に発令された。白河藩隠居だった元老中首座松平定信が、港湾財源を持つ桑名への転封を狙って仕掛けたものとされる。
[編集] 天保7年(1836年)
上野国館林藩主越智松平武厚を石見国浜田へ、浜田藩主松井松平康爵を陸奥国棚倉へ、棚倉藩主井上正春を館林へ転封したもの。3月12日に発令された。
[編集] 天保11年(1840年)
武蔵国川越藩、出羽国庄内藩、越後国長岡藩の3藩で行うはずだったもの。数ある三方領知替えの中で最も有名である。川越藩主で第11代将軍徳川家斉の実子を養子にとった松平斉典が、実高が多く裕福な庄内藩領地を狙って幕閣に働きかけたものだったが、庄内藩の士民を挙げた猛烈な抵抗にあって沙汰やみになった。
[編集] 弘化2年(1845年)
出羽国山形藩主秋元志朝を上野国館林へ、館林藩主井上正春を遠江国浜松へ、浜松藩主水野忠精を山形へ転封したもの。11月晦日に発令された。
[編集] 四方領知替え
[編集] 貞享2年(1685年)
下野国宇都宮藩主本多忠平を大和国郡山へ、大和郡山藩主藤井松平信之を下総国古河へ、古河藩主堀田正仲を出羽国山形へ、山形藩主奥平昌章を宇都宮へ転封したもの。6月22日に発令された。
[編集] 正徳2年(1712年)
下総国古河藩主大河内松平信祝を三河国吉田へ、三河吉田藩主牧野成央を日向国延岡へ、延岡藩主三浦明敏を三河国刈谷へ、刈谷藩主本多忠良を古河へ転封したもの。7月12日に発令された。