世良田頼氏
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世良田頼氏(せらだよりうじ、生年不詳 - 文永9年(1272年))は、鎌倉時代の上野国の武士、鎌倉幕府の御家人である。
頼氏は新田義重の四男得川義季の嫡子で、父から上野国新田郡世良田郷(現在の群馬県太田市世良田町)を譲られて世良田弥四郎と称し、世良田氏の祖となった。義季・頼氏父子は世良田郷近辺の所領の開発を進め、富を蓄えて新田氏一族中の実力者となっていたらしい。
1244年、新田義重の曾孫で新田氏の惣領、新田政義が京都大番役を任務途中で幕府に無断で放棄し、出家するという事件を起こした。幕府はただちに政義と新田宗家から新田氏惣領の座を没収し、頼氏と新田一族の岩松氏に分割して与えた。頼氏は将軍の近習として幕府に出仕し、高い地位に昇った。この頃、三河守に任官したようである。こののち、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』には頼氏を指して「新田三河前司」と呼んでいる。
しかし、1272年に執権の北条時宗が謀反を企てた異母兄北条時輔を討つ事件が起こると、頼氏は事件に連座して失脚し、佐渡に流された。