九鬼守隆
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九鬼守隆(くきもりたか、天正元年(1573年) - 寛永9年9月15日(1632年10月28日))は九鬼嘉隆の子。長門守。幼名は孫次郎。
1597年、父嘉隆から家督を継ぐ。1600年には徳川家康の会津征伐に従軍した。同年石田三成が挙兵し関ヶ原の役が勃発したため急遽国許に戻った。ところが、父の嘉隆は西軍方に与して鳥羽城に篭ってしまった。そして西軍が壊滅すると、守隆は父の助命を徳川家康に嘆願してそれを受け入れられたが、それを父の嘉隆に伝える直前に父は自害してしまい、間に合わなかったのである。
その後、鳥羽藩の初代藩主として5万6000石を領していたが、守隆は後継者に失敗してしまった。仏門に入っていた五男の九鬼久隆を還俗させて後継者にしようとしたのだが、三男の九鬼隆季から猛反発を受け、家督争いが起きてしまったのだ。このため1632年の守隆の死後、九鬼氏では家督争いが起こり、幕命によって久隆が後を継ぐこととなったが、摂津に移封されてしまい、九鬼氏は歴代の当主の所領である志摩を失ってしまったのである。