二村定一
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二村定一(ふたむらていいち、1900年6月13日 - 1948年9月12日)は、昭和初期を代表する歌手・ボードビリアン。山口県下関市の出身。本名は林貞一。
明治三十三年、六月十三日、山口県下関の生まれ。大阪薬学校を中退し、一時下関に帰省するが、その後上京して浅草オペラの高田雅夫に弟子入りをする。大正九年、根岸歌劇団に参加し金竜館で初舞台を踏む(『嫁の取引』)。芸名、二村貞一(まもなく二村定一という表記で定着する)。昭和に入るとエノケン一座の前進となるプペ・ダンサントで活躍し、川端康成により新聞小説「浅草紅団」に紹介されると一躍大人気となる。
レコードについては、大正十四年から、ニッポノホンで「テルミー」などの外国曲を吹込んでいたが、昭和に入ると、譜面が読める歌手として天野喜久代とともに、堀内敬三によって起用され、放送オペラに出演するほか、昭和3年にはニッポノホン、ビクターで吹込んだ堀内の訳詩による「青空」「アラビヤの唄」が大ヒット。昭和4年にはビクターから発売された「君恋し」「浪花小唄」「神田小唄」が連続してヒットし、佐藤千夜子ともにレコード歌手第一号と呼ばれた。歌詞を明瞭に発音する歌い方は、ベルカントの美しい響きで歌うクラシック音楽生増永丈夫に影響を与えた。増永は慶応普通部時代から東京音楽学校1年にかけて二村のピアノ伴奏をするなど既に親交を持っていた。この「増永」とは、のちの藤山一郎のことである(「増永丈夫」が藤山一郎の本名である)。昭和5年夏、コロムビアに移籍してからは、「エロ草紙」「チョンマゲ道中」などの中ヒットが多く、ヒットには恵まれなかったが映画主題歌の歌い手として重用された一方で、タイヘイ、太陽などのマイナーレーベルから200曲以上を発売。意外なことに昭和8年にニットーで発売された「咲かぬ花なら」はハリウッド映画「ラスト・エンペラー」の中で甘粕大尉役の坂本龍一がレコードを割るシーンに流れている。 「東京行進曲」の佐藤千夜子とともに、わが国の流行歌手のパイオニアであった。口さがないファンは、二村の大きな鼻に引っ掛けて「流行歌の鼻祖」と呼んでいた。
ボードビリアンとしての活躍は、レコード歌手としての活躍が少なくなるにつれて多くなり、榎本健一と二人座長で立ち上げたエノケン一座は、浅草の人気を独占したが、映画の登場によって、人気は全国的なものとなった。PCL映画「青春酔虎伝」の出演を皮切りに、「エノケンの近藤勇」「千万長者」「どんぐり頓兵衛」「ちゃっきり金太」と映画は連続ヒット。舞台においても野球人気に便乗した「民謡六大学」が大当たり。ただ、エノケンの人気が先行したことに腹を据えかねた二村は、たびたびエノケン一座を離れ、小林千代子一座などを転々とし、昭和15年の東宝映画「エノケンの弥次喜多」を最後に袂を分かち、独立した活動を行うようになってしまった。
太平洋戦争中に満州に渡り、現地で終戦を迎え、昭和21年帰国。エノケン一座の田島辰夫と結婚していた妹の家に身を寄せ、「引揚文化人の会」の一員として街頭で歌い、歌手活動を再開していた。その後、二村と再会したエノケンは、不遇の二村を立ち直らせようと、舞台「らくだの馬さん」の大家の役として復帰させたが、二村の健康は酒を嗜み続けたせいで既に損なわれており、昭和23年、公演中に倒れ、わずか48歳でこの世を去った。晩年、吐血した二村が手についた血を見ながら、もう酒が飲めなくなると嘆いたという悲惨なエピソードが残されている。二村はゲイであったため、家庭を持たず、葬儀は二村のファンであった慶応の学生が執り行なった。
[編集] 代表曲
「アラビヤの唄」(昭和2年) 「あお空」(昭和2年) 「君恋し」(昭和4年) 「浪花小唄」(昭和4年) 「神田小唄」(昭和5年)