仁寛
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仁寛(にんかん、生年不詳 – 1114年(永久2年))は、立川流の創始者とされる僧である。のちに改名して蓮念(れんねん)と名乗った。
[編集] 生涯
仁寛は、村上源氏の嫡流にして左大臣の源俊房の子として生まれた。叔父の顕房は右大臣で久我源氏の祖、従姉妹の賢子は白河天皇の中宮で堀河天皇の生母。また、兄の勝覚(しょうがく)は、真言宗系修験道の有力6流派(小野六流)のうち最大の流派・醍醐三宝院流の開基であった。
仁寛は、勝覚の弟子として真言宗を熱心に学び、真言宗の僧の最高位である阿闍梨(あじゃり)にまで上り詰めた。そして、当時村上源氏が支持していた輔仁親王(後三条天皇の第3皇子)の護持僧に任ぜられた。
[編集] 千手丸事件
1073年(延久4年)に皇位を第1皇子の貞仁親王(のちの白河天皇)に譲った後三条天皇はその死に際し、次代の天皇に輔仁親王を据えることを遺言した。しかし、即位した白河天皇はこれに違背し、息子の善仁親王(堀河天皇)に譲位して院政を敷いた。更に堀川天皇が夭逝すると、当時5歳の宗仁親王(鳥羽天皇)を立てた。支持する輔仁親王が遠ざけられたことに対し、村上源氏は不満を募らせた。
1113年(永久元年)、仁寛は輔仁親王を皇位に就けるべく、鳥羽天皇の暗殺を図った。しかしこの陰謀は事前に露見。実行役とされた童子・千手丸の供述によって仁寛は捕らえられ、尋問の末に犯行を自白した。同年11月、仁寛は伊豆の大仁へ流された(千手丸事件)。
[編集] 配流後
伊豆へ放逐された仁寛は名を蓮念と改め、真言の教えの伝道に努めた。武蔵国立川出身の陰陽師・見蓮(兼蓮とも書く)と出会ったのはこの頃である。この見蓮をはじめ、観蓮、寂乗、観照らの弟子に醍醐三宝院流の奥義を伝授した。
1114年(永久2年)3月、城山(じょうやま)の頂から身を投げ死亡した。彼の教えは見蓮らが発展させ、立川流を確立したとされている。
なお、立川流に関わる文献は、そのほとんどが後世の弾圧により失われており、詳細は明らかでない。仁寛もまた例外ではなく、上に述べた生涯についても、疑問点が指摘されている。この点に関しては、「立川流」の項を参照せよ。