令制国
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令制国(りょうせいこく)とは、律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位であった。律令国(りつりょうこく)ともいう。
令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。国府は府中と呼ばれることもあった。
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[編集] 用語
令制国が行政・地理の基本単位として用いられていた時代には、正式にも慣用的にも「国」とだけ呼ばれていた。後代の20世紀には「旧国」「旧国名」とも呼んだ。「令制国」という語は、20世紀末に用いられ始めた歴史学の用語である。律令のうち、令によって規定される制度を令制というので、令制の国を令制国と呼ぶ。律令制が崩壊した後の時期の国を「令制国」と呼ぶかどうかについて、ウィキペディアの編者は現在判断できないでいる。(詳しい人の編集を請う)
[編集] 令制国の成立
日本の古代には、令制国が成立する前に、土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。それに対して、令制国は、中央から派遣された国司が治める国である。
『日本書紀』には、645年の大化の改新の際に、東国に国司を派遣したという記事があり、最近までこれが令制国の設置を表すと考えられていた。ところが、出土した木簡などの資料から、書紀の編者が、古い時代の官衙や官職の呼称を、編纂当時の呼称に置き換えて記述している事が判って来た。この発見により、書紀の地方官制の記述の信頼性が低落したため、現在は令制国成立について確定的な説がない。
令制国が確実に成立したと言えるのは、701年(大宝元年)に制定された大宝律令からである。故に、令制国の成立時期は早ければ645年、遅ければ701年となる。この間の段階的な制度変化の結果であった可能性も高い。
[編集] 律令制下
奈良時代初期の713年に、平城京(奈良)の元明天皇は、令制国毎に「風土記」という地誌を編纂させた。現在、出雲国、常陸国、播磨国、肥前国、豊後国の物が、一部残存している。
740年代に聖武天皇が政権に就いた時期には、平城京では疫病が蔓延し、社会不安が広がっていた。これを払拭すべく、妻たる光明皇后の意見も有って、令制国には国分寺・国分尼寺が建立された。
800年頃に出された延喜式には、各令制国における郡の個数が記載された。
[編集] 中近世
律令制が事実上崩壊してからも、鎌倉時代においては、依然として各国に国衙が置かれ、国を支配していた。南北朝時代に戦乱が全国に及ぶと、守護大名の力が増大し、国衙も支配するようになった。それにともない室町時代には守護による領国支配が進行した。
戦国時代になると、律令時代からの行政単位としての国は死滅した。国司は、完全に名目だけの官職となり、戦国大名が領国支配の正当性を主張するために欲するようになる。天正時代と江戸時代には、地方統治は大小多様の大名と、大名に準ずる領主、江戸幕府の直轄領に分割された。領有が細分化した地方に特別な機関を置く場合を除いて、国を単位とする行政はなかった。しかし、地理的な区分には、依然として律令国が用いられた。
[編集] 明治以後
地理的な区分としてのみ国を残した点では、明治時代も変わらなかった。明治政府は、陸奥国を5国に、出羽国を2国に分割し、北海道に11国を新設したが、国単位での行政機関を置かなかった。1871年の廃藩置県後も存在したが、府県の改廃が一段落して国の大きさに匹敵するようになってから、次第に廃れていった。
しかし、その後も現在まで、同じ地名を呼び分けたり、旧国の知名度を借用したりするために、旧国名が利用されている。