伊東一雄
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伊東 一雄(いとうかずお、1934年4月7日 - 2002年7月4日)は、日本のプロ野球パシフィック・リーグ元広報部長で野球解説者。東京都台東区出身。「パンチョ伊東」の愛称で広く知られた。
[編集] 略歴など
- 1934年4月7日、東京都に生まれる。
- 子供時代から父親の影響で野球好きとなり、後楽園球場の大日本野球倶楽部戦、神宮球場の大学野球に通ってはスコアカード記入などを行っていた。
- 子供時代に、ニューヨーク・ヤンキース来日パレードを見に出かけ、ジョー・ディマジオに万年筆を差し出してサインをねだったところ、ネジ式の万年筆に慣れていなかったディマジオは(当時アメリカの万年筆のキャップはかぶせるだけのタイプだった)、伊東に「オープン!」と万年筆を突き返し、伊東は万年筆のキャップを外して直筆のサインをもらった。彼とメジャーリーグベースボールとの最初の出会いである。
- 両国高校在学中から、独学で英語放送で英会話をマスターする。同高校卒業時東京教育大学に合格するも親から貰った入学金を旅費にあてアメリカに渡る(当時は日本人の海外渡航が厳しく制限されていた時代である)。1959年にパ・リーグ入り。最初の仕事は中沢不二雄会長秘書であった。* パ・リーグの広報部長を1976年から1991年にかけて担当。「広報の伊東・記録の千葉(功)(当時のパ・リーグ記録部長)」はパ・リーグファンの間で有名だった。黒い霧事件で観客動員がセ・リーグの半分以下に落ち込んだ時に「我がリーグは3分の1リーグだ」と嘆いたことでも知られる。
- 1965年から始まったドラフト会議では1991年まで司会を務め、独特の名調子で選手名を読み上げることで知られた。
- 「名調子」と呼ばれたドラフト進行は定評が高かったが、最大の失敗談が1972年、大洋ホエールズ4位指名の益山性旭(投手、大阪福島商高=現在の履正社高)の名前を説明する際に、「「性」はセックスの性!」と高らかに説明し、場内が爆笑の渦に包まれた件である。後日伊東は「『性別の性』と言っておけばよかった」と語っており、益山に対して謝罪している(なお、この年益山は大洋には入団せず帝京大学に進み、1976年に阪神タイガースから1位指名を受けている。このエピソードが阪神1位指名時のものとする記述が各所で見られるが誤りである)。
- エピソードは山ほどあるドラフト司会だが、非常に冷静沈着であった。しかし、思わぬ指名(例で言うと読売ジャイアンツの桑田真澄の指名。これは本人が何度も「これでいいの?」と確認を取った程)で会場がざわついた際には「おしずかに!」と言う明らかに怒った声が響くことがあった。
- この他、日本ハムファイターズから指名された芝草宇宙(投手、帝京高)の「宇宙」を説明するために「ひろしは宇宙、コスモ」などの例えを使い、名調子として知られる。
- パ・リーグの仕事の合間を縫って、メジャーリーグの全球場を巡るのが趣味となった。そのうち、球団関係者からPanchoのニックネームを与えられ、次第に球団関係者のみならず選手にもコネクションを広げていき、マイナーリーグクラスの選手でもパンチョの名を知らないものはいないといわれた。
- 1991年にパ・リーグを退職。
- 1992年からはメジャーリーグベースボールへの取材を広げる一方、ニッポン放送の『ショウアップナイタープレイボール』のMCとして活躍。
- また、フジテレビの野球番組(解説として)や、『プロ野球ニュース』(レギュラーとしての出演当初は『プロ野球ニュース2000』)にも出演していた。
- 生涯独身で、晩年には森中千香良と「プロ野球独身貴族会」を結成。
- セガサターンで発売されたゲーム『プロ野球チームもつくろう!』に試合の解説、ドラフト会議の司会担当として登場した。
- 2000年ごろから内臓に多発性のがんが発見され、入退院を繰り返していた。2001年よりプロ野球ニュースに代わる新スポーツ番組「すぽると!」開始当初にも、お馴染みのメジャーリーグコーナー担当として続投する予定だったが、体調を崩し、一度もメジャーリーグコーナーを放送できなかった(その為弟子である福島良一が代わりに担当した)。2001年には、イチローが出場したオールスターゲームの特集にて久々にスタジオ出演したものの、深い椅子に座り、げっそりと痩せているなど、体調の悪さを物語っていた。2002年7月4日、心不全で死去。享年68。イチローの出場したオールスターゲームを生観戦出来ず終いだった。『すぽると!』の追悼企画では、パンチョ伊東自身が「ボクの娘」と可愛がっていた松井みどりアナ(当時)がナレーションを担当した。
- 独特の髪形をしており、亡くなるまで「カツラ疑惑」が絶えなかった。「東のパンチョ伊東、西のキダ・タロー」とも称された。ビートたけしは「サザエさん」のオープニングテーマに合わせて「カツラをかぶったパンチョさん」と替え歌にしたり、勝俣州和も「ぼく、ドラえもん」の替え歌で「頭テカテカ ハゲてピカピカ どんなもんだいボク パンチョ伊東です」と歌ったことがある。マーティ・キーナートは追悼文の中で「明らかにカツラだったが、死ぬまでその髪型を貫いた男」と評している。
[編集] 最後のメッセージ
フジテレビ『すぽると!』にて、次のメッセージが流された。
まさか、長い野球人生の間に、こんな事でピリオドを迎えるとは思っていなかった。
しかし振り返ってみれば、ディマジオ最後のホームラン、ジャッキー・ロビンソンのホームラン…これら日本野球の歴史に残る、ものすごい当たりを見られたことがはこれほど人生にとってラッキーな事があるだろうか。
これから先、日米野球でたくさんのチームが来日するだろう。そのたびに新しい歴史が出来ていく。そういうことを。それを大いに期待したいものだ。
それを本塁ベースの向こうからじっくり眺めていたい。ではみなさん、さようなら。 パンチョ伊東