佐川官兵衛
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佐川 官兵衛(さがわ かんべえ、1831年10月10日(天保2年9月5日)-1877年(明治10年)3月18日)は、幕末期の会津藩の家老。名は勝、直清という。
1831年、会津藩士の子として生まれた。藩主・松平容保に仕え、1862年には容保に従って上洛し、物頭次いで学校奉行に任じられた。1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで大敗北を喫する。会津藩領に戻ると越後戦線へ出陣。戦線が不利になると奥羽列藩同盟諸藩とともに戦線を離れて会津藩領へ戻らされることになる。この時、若年寄に昇進。だが、若松城から打って出ようとした時に酒で酔い出陣に遅れて大敗北をなす。帰城はせずに城外で戦った。藩主や家老・若年寄とともに東京で謹慎。斗南藩再興が許されると現在の五戸町へ移住。
警視局に出仕、警視に任命される。1877年の西南戦争が始ると、警察も動員されたことにより、豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として参戦するが、熊本県阿蘇郡で敵弾に眉間を打ち抜かれて戦死する。享年47。
西南戦争で、佐川が警視庁抜刀隊を組織したという誤解があるが、抜刀隊編成以前に佐川は戦死しており、抜刀隊を佐川が組織したという事実は無い。
性格は直情的だが人情に厚く、多くの会津藩士から信頼されていた。武勇に秀でていたことを薩摩・長州に恐れられ、「鬼の官兵衛」または「鬼佐川」「鬼官兵衛」と恐れられた。
墓は大分縣護國神社