准后
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准后(じゅごう)とは、太皇太后、皇太后、皇后の三后に准じた貴人の称号。准三后(じゅさんごう)、准三宮(じゅさんぐう)ともいう。
[編集] 准后とは
准后は、太皇太后、皇太后、皇后の三后(三宮)に准ずるという意味を持つ称号のことである。とりわけ、后の字があてられていることから、女性とりわけ皇族の夫人の称号ととらえられがちである。しかし、准后とは后に准ずるという意であり、性別に関わらず貴人に授けられた。准后は三后に準じた年官・年爵・封戸を賜り、経済的に優遇する目的で天皇の夫人、皇族、公卿、将軍家、高僧に与えられた。准后は貞観13年(871年)、清和天皇が外戚である摂政藤原良房に、三宮に準じて年官・年爵・封戸を賜ったのがはじまりであり、以後、良房の養嗣子 藤原基経が摂政在任中に、三后に准じて随身兵杖、任人、年官・年爵を賜ったことで准后が朝廷の正式な制度として定着した。 以後、天皇の生母でありながら、卑しい氏族であったことから后位につけなかった夫人、外戚、女御の父など天皇の縁戚に与えられるのが恒例となり、准后宣下ないし准三宮宣下として准后の待遇が与えられた。准后宣下は主に次第に内親王及び女王も対象となった。男性皇族では寛弘8年(1011年)、敦康親王に与えられたが、それ以降は法親王など僧籍に入った皇族が主な対象となり、俗親王には与えられなかった。
貴族・武士の妻に対しては准后は藤原道長の室・源倫子や、太政大臣平清盛の室平時子が初例であり、僧に対しては、鎌倉時代に関白九条道家の子である仁和寺法助に与えられて開田准后と称されたのが初例となる。いつごろまで経済的優遇が実体を伴っていたかは不明であるが以後、時代が下るにつれ、次第に経済的優遇としての准后から身分上の優遇を目的とした称号へと転化することとなった。
南北朝時代に入ると、北畠親房にも与えられたのに伴い、天皇の外戚以外の臣下にも准后が宣下される道が開かれるようになった。室町幕府3代将軍が臣下の資格で明との勘合貿易を目論んだ際は、陪臣であるとした拒否されたため、准三宮宣下を受けて日本国准后の外交称号で遣明使を派遣、日本国王の封号と朝貢貿易の許しを得て巨万の富を得るなど政治的に利用されるようになった。これが慣例となり、足利義満以降、15代将軍足利義昭に至るまで足利将軍家に准后が宣下されるなど、武士にも准后が許されるようになった。