北白川宮
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北白川宮(きたしらかわのみや)は、明治初期、伏見宮邦家親王の第13王子・智成(さとなり)親王が創設した宮家。
- 智成親王
- 能久(よしひさ)親王
- 伏見宮邦家親王の第9王子で、智成親王の兄宮に当たる。弘化4年(1848年)に誕生。安政5年に仁孝天皇の猶子として11歳で親王宣下。上野の輪王寺に入寺得度し、公現入道親王と名乗る。戊辰戦争の時、幕府側に附く。彰義隊に担がれて上野戦争に巻き込まれ、その後 奥羽列藩同盟に擁立され仙台に赴いた(東武皇帝として即位したとする説あり)。 維新後、蟄居・伏見宮預りとなる。 明治2年に許されて伏見宮に復帰する。 明治3年にドイツに留学。 明治5年に北白川宮を相続し、1877年(明治10年)に帰国した。 帰国後は陸軍に勤務。 陸軍中将にまで進む。日清戦争では近衛師団長として出征。 戦後、台湾守備の命令を受け、台湾征討軍の指揮にあたったが、1895年(明治28年)、現地で戦病死した。 享年49。
- 成久(なるひさ)王
- 永久(ながひさ)王
- 成久王の第1王子として1910年(明治43年)誕生。 1923年、成久王薨去により、宮家を相続した。 陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し、父宮の遺志を砲兵畑を歩み陸軍砲兵少佐となる。1935年(昭和10年)、尾張徳川家の流れを汲む男爵 徳川義恕(よしくみ)の娘・祥子(さちこ)と結婚。1940年(昭和15年)、日華事変に出征、蒙疆方面で演習中、軍用機の不時着事故により戦死。 31歳だった。
- 妃祥子は、東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)を卒業。 永久王との間に道久王と肇子女王を儲ける。1969年(昭和44年)女官長に就任し、平成改元後は、皇太后宮女官長として皇太后 良子(後の香淳皇后)に長く仕えた。 兄の徳川義寛は侍従長。 次兄・津軽義孝は常陸宮妃華子の父に当たる。
- 道久王
能久親王、成久王、永久王と3代続けて不幸が続いたことから、北白川宮家は「悲劇の宮家」と言われた。しかし、一方で戦後の混乱の中、堅実に家柄を守り抜いた。 また、肇子女王は明仁親王(後の第125代天皇)の、道久王の長女も徳仁親王の妃候補に名が上がった。