原罪
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原罪(げんざい ラテン語:peccatum originale)とは、キリスト教の多くの宗派において共有される思想で、アダムとイブがエデンの園で犯した罪が人間の本性を損ね、あるいは変えてしまったため、以来人間は神の助けなしには克服し得ない罪への傾きを持つことになったという思想。キリスト教の中でも教派によって原罪の理解には大きな差があるだけでなく、中には原罪という概念を持たないグループもある。
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[編集] 『創世記』にみる原罪
そもそも原罪の概念は『創世記』のアダムとイブの物語に由来している。『創世記』の1章から3章によれば、アダムとイブは日本語で主なる神と訳されるヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)の近くで生きることが出来るという恵まれた状況におかれ、自然との完璧な調和を保って生きていた。主なる神はアダムに園になるすべての木の実を食べることを許したが、中央にある善悪の知識の木だけは食べることを禁じた。しかし、蛇は言葉たくみにイブに近づき、木の実を食べさせることに成功した。アダムもイブにしたがって木の実を食べた。二人は突然裸でいることがはずかしくなり、イチジクの葉をあわせて身にまとった。主なる神はこれを知って驚き、怒った。こうして蛇は地を這うよう定められたのろわれた存在となった。
結果的に、二人は主なる神との親しい交わりを失い、永遠の生命を失い、自然との完全の調和も失った。ヤハウェ・エロヒムはアダムとイブが命の木を食べることを恐れ二人を呪い、エデンの園から追放した。いわゆる失楽園である。子孫たちにも二人の行動の結果が引き継がれることになった。
二人の行動は二人の運命を変え、その子孫たちにも累を及ぼす結果となった。二人の子孫たちは決して罪にまみれているわけではないが、人間の歴史そのものが楽園追放前の親しい神との交わりの復活を目指す努力であるということができる。二人が楽園を追放されたのは、木の実を食べたからではなく、主なる神の言葉に従わなかったからである。主なる神の言葉から考えると、もし二人が木の実を食べなければ永遠に生きることが出来たはずである。
ユダヤ教の伝統では、創世記の蛇をサタンの別の姿であるとみなしてきた。サタンとはヘブライ語で告発者という意味である。
[編集] ユダヤ教改革派およびオーソドックスの原罪観
改革派ユダヤ教徒やオーソドックスとよばれる人々は、この原罪物語において人間の行為以外の悪を見出さない。だから決して蛇をサタンの姿とは考えない。イブの唯一の罪は神の言葉に従わなかったことである。さらに創世記の記述からアダムがイブを制止していないことが明らかであるため、イブだけを責めるのはおかしいと考える。アダムとイブは楽園を追放されることで通常の人間の生活を送るようになった、いいかえれば「家を出て」成長し、責任ある人間として生きるようになったのだ。もし木の実を食べなければ、彼らは決して自由意志で生きることがなかったであろう。
さらにユダヤ教では、神は人間につねに選択の自由を与える方であるとみなされる。エデンの園でのアダムとイブはロボットのようなもので、彼らは木の実を食べ、追放されることで初めて自由意志を行使した人間になった。神はこれを望んでいたのだ、というのが改革派とオーソドックスによる原罪理解である。
[編集] 新約聖書の原罪観
新約聖書の原罪観はパウロの言葉によくまとめられている。「こうして罪は一人の人間によって世に入り、罪が死をもたらしたため、罪によって死がすべての人に広がった。」(ローマの信徒への手紙5:12)
個人のうちにおける原罪の経験と神に近づこうとする努力が失敗して感じる精神的なつらさもパウロはよく表現している。「私には自分のしていることがわかりません。なぜなら私は自分がしたいと思うことはせず、したくないことをしてしまうからです。もし、私がしたくないことをするなら、律法を善いものであることを認めます。もはや、したくないことをするのは私ではなく、私の中にある罪なのです。私は自分の肉体の中には何も良いものがないことを知っています。
正しいことをしたいという気持ちはあっても、できないのです。私は自分のしたいことをするのではなく、したくないことをしています。もし私が自分の望まないことをするなら、それは私の中にある罪のしわざなのです。私は自分がしたいことをしようとするとき、すぐに悪がやってくるという法則を発見しました。私は神の律法のうちに喜びを見出していますが、自分の奥底ではわたしの体の中には、別の法則があって心の法則と戦い、わたしを罪のとりこにしていることがわかります。私はなんと悲しい人間でしょう。だれが死に定められたこの肉体から救い出してくれるのでしょうか。」 (ローマの信徒への手紙7:15-24)
このジレンマの解決もパウロは見出している。「肉体によって弱められた律法にできなかったことを神はしてくださいました。つまり自分のひとり息子を罪の体のかたちで世に送り、わたしたちが肉でなく律法を全うして生きられるように、肉のうちにある罪を処断してくださったのです。」(ローマの信徒への手紙8:3-4)
新約聖書で原罪についてもっともよくその思想を語るのはパウロだが、イエス・キリストの言葉にも原罪を示唆するものがある。それは「なぜ、わたしを良いというのか。神お一人のほかに良いものはいない。」(マルコによる福音書10:18)や、「私はぶどうの木である。あなたたちはその枝である。私につながるものは豊かに実をむすぶが、私から離れてはあなたがたが何もできない。」(ヨハネによる福音書15:5)といった言葉である。
[編集] カトリックにおける原罪観
カトリック教会のカテキスムは原罪について次のように述べている。「人間は悪の誘惑を受け、神の信頼を裏切り、自らの自由を不正に行使して、神の命令に従わなかった。人間は神の命令に従わないことで、自らの良さを貶める結果となった。・・・人類の一体性により、すべての人はアダムの罪を引き継ぐことになったが、それと同じようにすべての人間はイエスの義をも受けつぐことができた。どちらにせよ、原罪も神秘であり、人間はそれを完全に理解することはできない。」
このように、原罪とはまず第一に神の主権へのさからいであること、つまりアダムが神に従うのでなく自分自身によって、本来神にしか判断できない問題である何が善で何が悪かを判断しようとしたことであると考えられている。禁断の木の実とは単に神の指示のたとえにすぎない。また、神はアダムに直接命令していることから、本来このさからいの罪は イブでなくアダムの責任に帰するものである。
中世においてスコラ学の神学者たちは原罪がアダムから後の世界へと生物学的な意味でも引き継がれたと考えた。こうして原罪は人間の本性を悪に傾けるようになった。これらの神学者たちは魂は神によって受精卵の中に入れられるが、そのとき原罪の汚れを受けるという考えを持っていた。聖母マリアの無原罪の御宿りという思想は、このような原罪の汚れがマリアにはなかったということを示すために生まれた。
[編集] 他のキリスト教諸派における原罪理解
カルヴァン主義の予定説では、原罪は人間の完全堕落をもたらしたと考える。カルヴァン主義における原罪の特徴は、人間は洗礼によってさえも原罪から免れることはないとされていることにある。