吉川経信
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吉川 経信(きっかわ つねのぶ、応永3年(1396年) - 康正2年(1456年))は、室町時代中期の吉川氏の当主。吉川経見の三男。官位は駿河守。通称、次郎三郎、治部少輔。戦国時代の武将として有名な吉川広家も、経信と名乗っていたこともあるが、彼は別人である。
1416年、父の隠居で家督を継ぐ。1441年、嘉吉の乱で将軍・足利義教を暗殺した赤松満祐追討に参加して武功を挙げた。この功績により、時の幕府よりその功績を評価されて、安芸における吉川氏の所領を増やされ、地位も安芸国内における幕府の最大御家人として待遇されることとなった。
1456年に死去し、後を子の吉川之経が継いだ。 法号は浄心。