名古屋市立工芸高等学校
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名古屋市立工芸高等学校 | |
過去の名称 | 名古屋市立工芸学校 名古屋市立第二工業学校 西陵高等学校 西陵高等学校分校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 名古屋市 |
設立年月日 | 1917年(大正6年) |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制 |
学科 | 電子機械科 建築システム科 都市システム科 情報科 グラフィックアーツ科 インテリア科 デザイン科 |
特殊学級 | なし |
所在地・連絡先 | |
所在地 | 〒461-0027 |
愛知県名古屋市東区芳野2-7-51 | |
電話番号 | 052-931-7541 |
外部リンク | 公式サイト |
名古屋市立工芸高等学校(なごやしりつこうげいこうとうがっこう)は、電子機械科、建築システム科、都市システム科、情報科、グラフィックアーツ科、インテリア科、デザイン科の7つの専門科を有する高等学校。普通科は存在しない。
所在地は愛知県名古屋市東区芳野町。地元の人からは略して市工芸(しこうげい)、または名市工芸(めいしこうげい)と呼ばれている
目次 |
[編集] 沿革
[編集] 第1期 布池時代(1917年~1928年)
[編集] 第2期 西町時代(1929年~1943年)
- 1929年 南区熱田西町に校舎を移転。
- 1930年 工芸図案分科を図案科、建築図案分科を建築科、金工科を金属工芸科、木工科を木材工芸科に改称。
- 1931年 精密機械科を設置。
- 1934年 建築科、精密機械科の第2本科(夜間)を設置。
- 1940年 図案科を図案印刷科、金属工芸科を金属工作科に改称。
- 1942年 電気科、工業化学科を設置。
[編集] 第3期 児玉、光音寺時代(1943年~1951年)
- 1943年 図案印刷科、木材工芸科を廃止、金属工作科を金属工業科に改称。西区児玉町に名古屋市立第二工業学校として、建築科、土木科、造船科を設置。
- 1946年 名古屋市立工芸学校に改称。金属工業科を金工科に改称、木工科が設置。
- 1947年 図案科を設置。
- 1948年 第2本科建築科を定時制建築科に改称。 本校他四校を統合し、西陵高等学校を新設。
- 1950年 西陵高等学校分校として、建築科、土木科、木工科、金工科、図案科を設置、印刷科、美術科を新設。北区光音寺に校舎を移転。
[編集] 第4期 芳野時代(1951年~)
- 1951年 名古屋市立工芸高等学校として単独に発足。東区芳野町に移転。
- 1953年 図案科、美術科の募集を停止し、産業美術科を新設。
- 1963年 金工科の募集を停止し、機械科を新設。定時制機械科を新設。
- 1965年 産業美術科をデザイン科、木工科を木材工芸科に改称。
- 1973年 木材工芸科をインテリア科に改称。
- 1984年 定時制(建築科、機械科)の募集を停止。
- 1990年 学科改変に伴い電子機械科、情報科を新設。建築科、土木科、印刷科の募集を停止し、建築システム科、住居デザイン科、都市システム科、グラフィックアーツ科を新設。
- 1991年 機械科の募集を停止。
- 1993年 住居デザイン科の募集を停止。機械科を廃止。
- 1995年 住居デザイン科を廃止。電子機械科募集定員減少。
[編集] 概要
最寄駅は、名鉄瀬戸線尼ヶ坂駅。名古屋市有数の高級住宅街である白壁に近く、各教室からは名古屋駅JRセントラルタワーズやミッドランドスクエア、名古屋テレビ塔を望むことができる。
制服は男子は学ラン、女子はブレザーで、どちらもオーソドックスでシンプルな制服であるが、生徒の多くはそれを自己流に着こなしている。電子機械科は黄緑、建築システム科は黄、都市システム科はエンジ、情報科は紫、グラフィックアーツ科は黒、インテリア科は水色、デザイン科は白の科章バッジを胸に着け、学年別に紺、緑、赤の上履きを使用している。
情報科、グラフィックアーツ科は男女の比率はほぼ等しいが、電子機械科、建築システム科、都市システム科は主に男子、インテリア科、デザイン科は主に女子によって構成される場合が多い。デザイン科のみ入試の際に特別検査を実施している。
各科の履修レベルは高く、専門知識・専門技術を学びたいと志望して入学する生徒が多い。そして学科修了後には、三年間で学んだ技術をいかせるような職業に就く者が多い。また、主に電子機械科や情報科、デザイン科などからは大学へ進学する者も輩出している。各科の授業内容やコンペ作品、学科課題には全国単位で表彰されるものも多くあり、たびたびメディアで取り上げられる。