向坂逸郎
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向坂 逸郎(さきさか いつろう、1897年2月6日-1985年1月22日)は、福岡県大牟田市出身の日本のマルクス経済学者・社会主義思想家。九州大学教授・社会主義協会代表を歴任。
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[編集] マルクス経済学者としての出発
[編集] 学生時代
会社員の息子として生まれる。第五高等学校を経て、1921年に東京帝国大学(現東京大学)経済学部を卒業すると、東大の助手となった。第五高等学校に在学中、ドイツ語の勉強のために、カール・マルクスの著作を読んだことからマルクス主義に傾倒するようになったという。
[編集] ドイツ留学
1922年にドイツに留学。当時のドイツは第1次世界大戦後の猛烈なインフレによりマルクが暴落しており、向坂は外貨でマルクス主義に関する貴重な書物を大量に買い集めることが出来た。向坂がマルクス主義文献の収集家となった基礎はこのときに築かれたと言ってよい。
[編集] 九州帝国大学教授に
ドイツから帰国すると、九州帝国大学(現九州大学)助教授に任命され、1926年には教授に昇進した。また、雑誌『労農』の同人および論客としても知られ、日本を代表するマルクス経済学者の一人となった。
[編集] 弾圧と復帰
1928年に治安維持法が改正されるなど日本共産党に対する弾圧が厳しくなると、マルクス主義者の向坂に対する風当たりも強くなり、1928年に九州帝国大学教授を辞任するよう強要された。その後東京に移った向坂は改造社の『マルクス・エンゲルス全集』の編纂と翻訳に携わった。
1937年に第1次人民戦線事件に連座して逮捕・投獄される。保釈後も言論活動を封じられ、細々と農業をして暮らした。 1945年の日本の敗戦によってマルクス主義の研究も合法となり、向坂も九州大学教授に復帰した。
[編集] 社会主義協会代表として
[編集] 左派社会党
1951年、山川均らとともに社会主義協会を創設し、日本社会党左派の理論的支柱となり、左社綱領の作成に携わったりした。1958年に山川が亡くなると、社会主義協会の中心人物となった向坂は総評の太田薫・岩井章らとともに社会党の再統一に対する批判を開始し、マスコミの注目を浴びるようになった。
[編集] 三池闘争
向坂は大学での講義や言論活動の傍ら、社会党や労組の活動家を自宅に集めて『資本論』を講義したり、全国の勉強会に気軽に赴いて、労働者の教育に力を入れたために、次第に社会主義協会系の活動家の間で向坂はカリスマ的存在となった。特に、向坂が力を入れたのが福岡県の三井三池炭鉱での活動家育成で、1960年の三池闘争の中心となったのは、向坂が育成した活動家たちであった。三池闘争は最終的に労働者側の全面敗北に終わった。しかし、向坂の思想は活動家に大きな影響を与えるようになり、向坂自身も三井三池争議を神聖化するようになった。
[編集] 構造改革論争
1960年代に社会党内で構造改革論争が起こると、向坂は構造改革論を「修正主義」と批判し、佐々木派と組んで構造改革派に対する批判を開始し、佐々木更三の庇護の下に社会主義協会系の活動家を党内で増やして、社会党に対する発言権を強めていった。1967年、社会主義協会は太田派と向坂派に分裂する。 しかし、党大会の代議員で多数を占めて社会党の運営にも大きな影響を与えたのは向坂派だったため、一般に社会主義協会と言えば向坂派を指すようになった。
[編集] 社会党内での発言力増加
1970年代、末端の活動家を押さえた向坂派社会主義協会は社会党内で大きな発言権を有するようになった。
60年代末から70年代前半にかけて日本経済の発展は著しく、まず新左翼諸派、ついで共産党の勢力が拡大した。こうしたなかで無党派の活動家は社会党系であり理論を有する社会主義協会に引き寄せられた。共産党勢力の伸張は官公労で顕著であり、労組幹部はこれに対抗するものとして社会主義協会系活動家を積極的に育成した。こうして60年代末に大きく落ち込んだ社会党の党勢は、向坂派社会主義協会の伸張にともない70年代前半から中期にかけて一定の回復を示した。
しかし向坂の思想は、ソ連などの社会主義国に対する批判精神を欠き、チェコ侵攻(1968年)やアフガニスタン侵攻(1980年)を公然と支持した。雑誌のインタビューでは、社会党の党是であった護憲・非武装中立政策は資本主義の間だけの事であって、社会党政権になれば直ちに社会主義憲法に改訂、軍備を持ってワルシャワ条約機構に加入する事を示唆する発言をした。彼の弟子たちはソ連や東ドイツなどに繰り返し招待されて友好訪問を繰り返し、あらかじめ設えられた箇所のみを訪問する事で、その建前上の主張を信じ込み、「社会主義の優位性」を賛美した。また戦前の労農派マルクス主義を重視するあまり戦後の高度経済成長による日本社会の変化を無視した側面があった。そのため向坂派社会主義協会が社会党内で勢いを振るったことは、社会党の長期低落傾向を克服することにはならず、基本的にはむしろ促進したといえる。さらにこの頃、向坂派社会主義協会の若い活動家たちは若干の「前進」を過信し、古参社会党員と摩擦を深めることも多かった。
[編集] 協会規制に抗して
1974年、向坂と手を切った佐々木更三や江田三郎らが「7人委員会」を結成して反協会の姿勢を明らかにすると、向坂らはこれに強く反発した。
佐々木は1976年の総選挙で社会主義協会の妨害もあり落選し、政界を引退した。
1977年の党大会では社会主義協会系の活動家たちが副委員長の江田三郎に暴言を浴びせ、つるしあげる事態に発展した。江田は同年に社会党を離党して社会市民連合を結成したが、間もなく急死した。
[編集] 理論研究集団に
こうした動向は、労使協調路線への転換を模索していた総評に向坂派社会主義協会との関係を切ることを決断させた。
1978年の社会主義協会第11回大会(総会)では、社会主義協会は理論研究集団に徹し、政治活動はおこなわないことを認めた。
[編集] 最期
その後、向坂側近の学者たちが次々と西欧型の社会民主主義に転向して彼の下を去っていくなか、向坂は社会主義協会の団結を維持することに苦慮した。 そして1985年1月22日、87歳で息を引き取った。
向坂はソ連のマルクス・レーニン主義研究所の研究員が驚嘆するほどのマルクス主義文献の収集家であった。 向坂が収集した文献や資料は死後、法政大学の大原社会問題研究所に寄贈された。
[編集] 評価
向坂は、『資本論』研究、マルクス主義文献の収集や翻訳、活動家への教育活動に関しては功績は大きいと評価される。
一方で、山川と違って自分の理論を社会の変化に適応させる柔軟性を持っていなかったため、戦後の日本社会の変化を理解できず、 社会党を戦前以来の労農派マルクス主義に縛りつけて、社会党の党勢、そして日本の社会主義運動の低落を招いたという負の側面も指摘されている。
共産党はマルクス・レーニン主義を教条としていたが、理論的深化よりも政治的活動を正当化するために片言隻句を利用する傾向があり、これが弱点のひとつといえた。したがって向坂逸郎はマルクス主義の原点に立つ教育活動を通じて社会党勢力を共産党から防衛しえたのであり、このかぎりで社会党や労組の幹部の支持を得ることができた。そして共産党の退潮により、社会党・労組幹部は、みずからも前衛党に傾斜しはじめた党内の非共産党的マルクス・レーニン主義を敵視したのである。 向坂逸郎は歴史が必要とするあいだ生き、その歴史的使命を終えたときに死んだといえよう。
[編集] 参考文献
- 坂本守『向坂逸郎・ゆき 叛骨の昭和史』西日本新聞社、1982年。
- 上野建一・石河康国ほか『山川均・向坂逸郎外伝 労農派 1925-1985』(上・下)社会主義協会、2002・2004年。
- 小島恒久『向坂逸郎 その人と思想』えるむ書房 2005年