和帝 (漢)
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和帝(わてい、79年 - 105年 在位88年 - 105年)は、中国後漢第4代皇帝。姓は劉、諱は肇。父は3代皇帝章帝。
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[編集] 業績
[編集] 操られた皇帝
章帝の四子として生まれる。生母の梁貴人は宮廷内での争いの中で章帝の皇后・竇氏によって殺される。88年に9歳で即位。以後、幼帝が続き後漢は衰退の一途をたどる。当然9歳児に政治は執れないので、竇太后が垂簾政治を行い、皇太后の兄である竇憲らが外戚として政権を握ることになる。竇憲は匈奴討伐にも戦功を上げて、大将軍となった。
[編集] 外戚の排除と宦官の台頭
和帝も年齢を重ねるとこれに対して反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り返したいと望むようになった。その感情は竇憲側にも知れて、竇憲は和帝を害しようと画策し始める。和帝もその動きは察知しており、竇氏誅滅を謀り始めた。和帝が謀臣に選んだのが宦官の鄭衆(ていしゅう)である。鄭衆を使った理由として、一つは宦官であるゆえに密謀がやりやすいと言うことと、鄭衆自身が優れた人物であり、媚びへつらうようなことはせず、頭脳明晰で行動力もあったと言うことがある。 92年、竇憲を宮廷内におびき寄せて大将軍の印綬を取り上げて実権を剥奪し、領地に於いて自殺を命じた。これにより竇一族を政権より排除し、実権を取り戻した。鄭衆は功績大として鄲郷侯に封じて、大長秋の職を授けた。その後も鄭衆を信任し、和帝の政治は側近政治の色を帯び、これが後漢に於ける宦官の跳梁の嚆矢となる。鄭衆は確かに政権に加わるだけの才能を持った人物であったが、これ以降の多くの宦官たちは政治的には無能で、金銭にかける執念だけは優れていると言った人物が多い。
また、これ以後は幼帝が続いて外戚勢力と宦官勢力との間で激しい争いが続くことになる。このようなことから多くの場合、「後漢は和帝の時から衰退を始めた」と評される。
[編集] 領土拡大と紙の発明
その一方で外征面では後漢の時代で最も奮った時代となり、西域の50余国が後漢に従った。と言ってもこの成功は班超の力量に拠るところが大きく、班超の死後は西域に於ける後漢の影響力は一気に衰える。文化的には直接、和帝が何かをしたと言う訳ではないが、この時代に後漢の文化に於いて特筆するべきことが二つある。一つは班固・班昭兄妹による『漢書』の成立(92年)であり、もう一つは蔡倫による製紙法の改良(105年)である。