嘉元の乱
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嘉元の乱(かげんのらん)とは鎌倉時代、1305年(嘉元3年)に発生した鎌倉幕府内での騒乱のことである。北条宗方の乱とも呼ばれる。
嘉元3年(1305年)4月22日(旧暦)、得宗貞時邸が火災で焼失し、貞時は執権師時邸に避難する。翌日、内管領北条宗方は、連署時村を得宗の上意と称して攻め殺した。 5月2日、貞時は宗方とともに時村を討った御家人、御内人12人の処刑を命じ11人は斬首され、1人は逃亡した。 5月4日、宗方は執権師時邸に参内し貞時に面会を求めた。しかし、評定中であるから待機せよと佐々木時清から伝言されたことに逆上し、時清と揉み合いの末両者とも死亡した。 貞時は宗方が野心逞しく、謀反を起こしたとして宗方一派の御家人、御内人を粛清した。
嘉元の乱に関する史料は乏しく、実態が不明である。 一般的には宗方が執権職を望んで起こした謀反と言われている。しかし、それだけでは事件の説明がつかず、事件の背景には北条氏内部で得宗専制政治を進める得宗家と諸流家との対立があり、得宗貞時が得宗傍流の宗方を使って政村流の時村を粛清したが、他の北条氏庶流家の反発が強く宗方を粛清して事態を収拾したとも言われる。
貞時はこの事件を期に政治への関心が薄れたといわれる。霜月騒動、平禅門の乱で強まった得宗の権威が弱まり、御内人が再び幕府の実権を握るきっかけにもなった。