園城寺
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園城寺 | |
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金堂(国宝) |
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所在地 | 滋賀県大津市園城寺町246 |
山号 | 長等山(ながらさん) |
宗派 | 天台寺門宗総本山 |
本尊 | 弥勒菩薩 |
創建年 | 7世紀 |
開基 | 大友与多王 |
別称 | 三井寺 |
文化財 | 金堂・勧学院客殿他8点(国宝) 梵鐘他(国重文) |
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山。山号を長等山(ながらさん)と称する。開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。一般には三井寺(みいでら)として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三箇所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。
目次 |
[編集] 起源と歴史
三井寺は7世紀に大友氏の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上たびたびあった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時にさかのぼる遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。
三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏に就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡(香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の姪にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主(てんだいざす)義真に入門。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。その後、比叡山の規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山や熊野三山をめぐって厳しい修行をする。このことから三井寺は修験道とも深いつながりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行の道場とするとともに、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍に伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教、密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は、これによって政府の公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗とみなしている。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。
円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀あまりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)をはじめ、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。中世以降は源氏、足利氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼朝も当寺に保護を加えている。
文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、欠所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。
明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。
[編集] 伽藍
- 大門(重文)-仁王門とも呼ばれる。入母屋造の楼門(2階建ての門で、下層と上層の境には屋根の出をつくらないもの)。もと近江の常楽寺(滋賀県湖南市)にあった門を慶長6年(1601年)、徳川家康が寄進したもの。墨書銘等から室町時代の宝徳3年(1451年)の建立と推定される。
- 釈迦堂(重文)-大門を入って金堂に至る道の右側にある。天正年間(16世紀末)造営の御所清涼殿を下賜され移築したものと伝える。
- 金堂(国宝)-三井寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、北政所が慶長4年(1599年)に再建した。入母屋造、檜皮葺きの和様仏堂である。
- 鐘楼(重文)-金堂の左手前にあり、「三井の晩鐘」で知られる梵鐘を吊る。この梵鐘は慶長7年(1602年)の鋳造で、平等院鐘、神護寺鐘とともに日本三名鐘に数えられている。
- 閼伽井屋(あかいや、重文)-金堂の西に接して建つ小堂で、慶長5年(1600年)、金堂と同じく北政所によって建立された。堂内には三井寺の名の起こりとなった霊泉が湧出している。
- 一切経蔵(重文)-室町時代の建築。毛利輝元の寄進により、慶長7年(1602年)、山口市の国清寺の経蔵を移築したものという。
- 三重塔(重文)-鎌倉時代末期から室町時代初期の建築。奈良県の比曽寺にあった塔を豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、慶長6年(1601年)、徳川家康が再度移築させたもの。
- 唐院-灌頂堂(重文)、唐門(重文)、大師堂(重文)、長日護摩堂などがある。智証大師円珍が唐から帰国後、請来した経巻法具などを納めたところとされる。現在は、宗祖円珍の廟所ならびに灌頂(密教の儀式)の道場として寺内でも最も重視されている区域である。
- 観音堂-寺域の南側、琵琶湖を望む高台に位置し、西国三十三箇所観音霊場の第14番札所として知られる。観音堂は元禄2年(1689年)に再建されたもの。
- 毘沙門堂(重文)-観音堂の近くにある小堂。元和2年(1616年)の建立と伝える。
- 護法善神堂(千団子社)-三井寺の守護神である護法善神(鬼子母神)像を祀る。
- 新羅善神堂(しんらぜんじんどう、国宝)-三井寺の中心伽藍から北へ500メートルほど離れた場所にある。三井寺の鎮守神である新羅明神を祀る。「堂」と名が付くが、建築様式的には流造(ながれづくり)の神社本殿である。現存の建物は貞和3年(1347年)、足利尊氏の寄進によるもの。新羅明神は、唐に留学した円珍が日本へ帰国する際、船中に現われた神とされ、円珍に伝えられた経法を永遠に守護することを誓った神であるという。円珍が請来した経典法具を三井寺に保管することになったのも新羅明神の夢告によるとされている。源頼義が三男の義光をこの神の前で元服させ、義光はそれ以来「新羅三郎」と呼ばれるようになったことはよく知られる。
- 勧学院客殿(国宝)-唐院の南隣に位置する。慶長5年(1600年)の建立。桃山時代の書院造建築の代表作とされる。障壁画は狩野光信を中心とする狩野派一門の作である。
- 光浄院客殿(国宝)-金堂の北方に位置する。勧学院客殿より1年あとの慶長6年(1601年)建立。規模、意匠など勧学院客殿と似る。障壁画はやはり狩野一門の作である。
- 円満院-大門の北方(右)に位置する。円満院門跡とも称し、寛和3年(987年)村上天皇の第三皇子・悟円法親王によって創建された。江戸時代の画家円山応挙ゆかりの寺としても知られる。宸殿(重文)は、慶長年間造営の御所のうち、東福門院の御局といわれる建物を移築したもので、仁和寺の金堂などとともに江戸時代初期の寝殿造宮廷建築の遺作として重要なものである。宸殿にあった障壁画の「住吉社頭図」6面(重文)と「風俗図」4面(重文)は1974~1975年に文部省買上げとなり、現在は京都国立博物館に所蔵されている。その他、円満院には円山応挙の「七難七福図」をはじめ7件の重要文化財が所蔵されていたが、現在はいずれも寺外に流出している。
- 法明院-境内最北にある子院。明治時代に日本美術の普及啓蒙に功績のあったアメリカ人アーネスト・フェノロサが長く滞在し、その墓があることで知られる。書院には円山応挙、池大雅らによる障壁画がある。
[編集] 黄不動
国宝指定名称は「絹本着色不動明王像」。高野山明王院の「赤不動」、青蓮院の「青不動」とともに日本三不動の1つに数えられる、古来著名な画像である。「金色(こんじき)不動明王」とも呼ばれるこの像は、承和5年(838年)、比叡山で籠山修行中の円珍(当時25歳)の前に忽然と現われ、「自分は金色不動明王である。仏法の真髄を伝える汝(円珍)を守護するために現われた」と告げたとされる。その後、この不動明王は、円珍が唐への航海の途上、海賊に襲われそうになった時に出現するなど、円珍の生涯の危機に際して現れたとされ、円珍の守護神的な性格をもっていたと思われる。
画面の大きさは178センチ×72センチ。平安時代初期、9世紀頃の制作と推定されている。不動像は両眼をかっと見開き、上半身裸形、筋骨隆々とした姿に表わされる。背景を描かず、像は画面一杯に描かれる。像の足下には台座がなく、虚空を踏まえている。頭髪に弁髪をつくらない点など、通常の不動明王像とは図像的にかなり異なるものである。
三井寺では宗祖ゆかりのこの像を厳重な秘仏としており、出版物への写真掲載を厳しく制限している。かつては伝法灌頂という密教の儀式を受けた者にのみ黄不動像の拝観が許されていたが、昭和時代以降、在家の一般信者も参加できる「結縁灌頂」という儀式が何度か実施され、その際に黄不動像拝観の機会が与えられた。20世紀後半以降、黄不動像が公開された機会は以下のとおりである。
- 1954年-東京日本橋高島屋にて結縁灌頂と記念秘宝展開催。
- 1973年-横浜高島屋にて結縁灌頂と記念秘宝展開催。
- 1989年10月~1990年9月-東京国立博物館など4会場で「智証大師一千百年御遠忌記念三井寺秘宝展」開催。
- 1990年-寺内で「智証大師一千百年御遠忌大法会」が行われ、11月6日~11月12日の7日間、結縁灌頂受者に限り黄不動像拝観が許可された。
- 1995年5月-奈良国立博物館開館百年記念「日本仏教美術名宝展」に黄不動像を1週間だけ展示。なお、特別展図録には黄不動像の写真は掲載されなかった。
[編集] 文化財
[編集] 三井寺の秘仏
三井寺は、歴史上、たび重なる焼き討ちの被害に遭ったにも関わらず、仏像、仏画、文書など多くの文化財を伝えている。また、建造物や障壁画にも近世以降の優れたものが多い。 なお、建造物以外の文化財で、寺内で常時公開されているものは奈良時代の梵鐘(重文、通称弁慶引き摺り鐘)のみである。黄不動像をはじめ、大師堂の智証大師像2体(中尊大師、御骨大師)と木造黄不動立像、新羅善神堂の新羅明神像、観音堂の如意輪観音像、護法善神堂の鬼子母神像などはいずれも秘仏である。また、秘仏以外の仏像、仏画等の多くは東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されている。
1989年10月~1990年9月に東京国立博物館など4会場で開催された「智証大師一千百年御遠忌記念三井寺秘宝展」と、1990年10月~11月に寺内で開催された「智証大師一千百年御遠忌大法会」では、以上の秘仏すべてが一定期間公開された。なお、金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、公開されたことがなく、写真も存在しないため、いかなる像であるかは不明と言うほかない。
[編集] 国宝
- 金堂
- 新羅善神堂
- 勧学院客殿
- 光浄院客殿
- 絹本着色不動明王像(黄不動)(既述)
- 木造智証大師坐像(中尊大師)-唐院大師堂の中央の厨子に安置。秘仏で、毎年10月29日の円珍の命日にのみ開扉される。卵形の頭の形と細い眼が特徴の独特の風貌は、各地に残る円珍の肖像に共通のものである。この像はもと比叡山内の山王院(千手院)にあったと言われ、円仁(慈覚大師)門徒と円珍門徒の抗争激化のため、円珍門徒が比叡山を下りた正暦4年(993年)に三井寺に移されたものと言われている。ただし、作風的には10世紀後半頃のものと見られ、正暦4年頃に三井寺で新たに造像されたとの見方もある。1989年~1990年の「智証大師一千百年御遠忌記念三井寺秘宝展」で公開されたほか、1986年に開催された「開創千二百年記念比叡山と天台の美術」展でも公開されたことがある。
- 木造智証大師坐像(御骨大師)-唐院大師堂内、中尊大師像の向かって左に安置する。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。荼毘に付した円珍の遺骨を納めるところから「御骨大師」と呼ばれて寺内で尊崇され、出版物への写真掲載は制限されている。中尊大師像より古く、9世紀末、円珍没後まもない頃の作と思われる。
- 木造新羅明神坐像-新羅善神堂に安置。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。円珍が日本へ帰国する際、船中に現われた神とされる。長いあごひげをたくわえ、目尻の下がった異様な相貌、異様に細く長い指など、きわめて特殊な像容を示し、日本彫刻史の中でも異彩を放っている。平安時代後期、11世紀頃の制作と推定される。1989年~1990年の「智証大師一千百年御遠忌記念三井寺秘宝展」で公開されたほか、1986年に開催された「開創千二百年記念比叡山と天台の美術」展でも公開されたことがある。
- 五部心観2巻-両界曼荼羅のうち、金剛界曼荼羅の諸尊を表わした白描(はくびょう)図像の巻物である(白描とは、陰影や肥痩のない、均質な墨の線だけで表わした絵画のこと)。2巻のうち1巻は唐時代の制作で、円珍が師の法全(はっせん)から授かったもの。もう1巻は平安時代に日本で写されたものである。
- 智証大師関係文書典籍-円珍に関わる資料46種が一括して国宝に指定されている。主なものとしては、円珍の系図、唐への渡航関係文書、円珍自筆本、唐から請来した経典などがある。
[編集] 重要文化財
- 木造不動明王立像-唐院大師堂の向かって右の厨子に安置される。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。原本である黄不動の画像をもとに、鎌倉時代に彫像として造られた像である。
- 木造如意輪観音坐像-西国観音霊場14番札所の観音堂の本尊である。秘仏で、開扉は33年に一度とされている。
- 梵鐘(弁慶の引き摺り鐘)-金堂裏の霊鐘堂に所在。「三井の晩鐘」の鐘とは別のものである。無銘だが、奈良時代にさかのぼる日本でも有数の古鐘である。伝承では、俵藤太秀郷がムカデ退治のお礼に琵琶湖の竜神から授かった鐘だと言われ、その後比叡山と三井寺の争いに際して、弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が「イノー」(「帰りたいよう」の意)と鳴ったので、弁慶が怒って谷底へ捨てたという。現状、鐘の表面に見られる擦り傷やひびはその時のものと称する。歴史的には、この鐘は文永元年(1264年)の比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたというのが史実のようである。
以下は園城寺所有の重要文化財の一覧である(上に解説したものも重出している)。絵画、彫刻等の大部分は東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されている。
(建造物)
- 大門(仁王門)
- 閼伽井屋
- 一切経蔵
- 三重塔
- 食堂(釈迦堂)
- 毘沙門堂
- 唐院大師堂・唐門・灌頂堂・四脚門
- 鐘楼
(絵画)
- 絹本著色新羅明神像
- 絹本著色天台大師像 2幅
- 絹本著色不動明王像
- 絹本著色不動明王二童子像
- 絹本著色不動明王八大童子像
- 絹本著色釈迦十六善神像
- 絹本著色涅槃像
- 絹本著色尊星王像
- 絹本著色多聞天像
- 絹本著色閻魔天像
- 絹本著色水天像
- 絹本著色黄金剛童子像
- 絹本著色両界曼荼羅図
- 絹本著色尊勝曼荼羅図
- 絹本著色八大仏頂曼荼羅図
- 光浄院客殿障壁画 松に滝図1面、菊花図5面、列仙図7面、花鳥図12面
- 勧学院客殿障壁画 金地著色滝図3面、梅、桧及花卉図4面、桜、杉及花卉図4面、桧及花卉図4面
- 勧学院客殿障壁画 紙本著色松に山鳥、鴨、鴛鴦図及竹に雀図16面、竹に雀及芦に鷺図8面
(彫刻)
- 木造如意輪観音坐像(観音堂安置)
- 木造愛染明王坐像(観音堂安置)
- 木造護法善神立像(護法善神堂安置)
- 木造黄不動尊立像(唐院安置)
- 木造吉祥天立像(琵琶湖文化館寄託)
- 木造十一面観音立像(京都国立博物館寄託)
- 木造千手観音立像(奈良国立博物館寄託)
- 木造智証大師坐像(琵琶湖文化館寄託)
- 木造不動明王坐像(奈良国立博物館寄託)
- 木造訶梨帝母倚像(所在護法善神堂)
(工芸品)
- 金銅孔雀文磬
- 銅鐘 大平年間(遼)銘
- 梵鐘
(書跡、歴史資料)
- 大蔵経 592帖
- 紙本著色園城寺境内古図 5幅
- 園城寺尺