土井利勝
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土井 利勝(どい としかつ、元亀4年3月18日(1573年4月19日) - 寛永21年7月10日(1644年8月12日))は、江戸時代の大名である。父は土井利昌、あるいは水野信元の庶子。徳川家康の実子という説もあり、徳川家の公式記録である徳川実紀にも説が紹介されている。 子に土井利隆、土井利長、土井利房。
徳川家康・秀忠・家光の三代にわたって仕え、老中・大老をつとめた譜代大名。官位は従四位下・侍従大炊頭。
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[編集] 江戸幕府開府まで
遠江国浜松城(静岡県浜松市)に生まれる。利勝は幼少の時より家康に仕え、天正7年(1579年)4月秀忠が生まれると、安藤重信、青山忠成と共に7歳にして秀忠の子守役を命じられた。役料は200俵といわれる。
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いの際には、利勝は秀忠に従って別働隊となり、江戸から中山道を通って西へ向かった。しかし、信濃上田城の真田昌幸を攻めあぐみ、関ヶ原の決戦にはついに間に合わなかった。慶長7年(1602年)に1万石を領して諸侯に列し、下総小見川を本拠地とした。
[編集] 幕府草創期
慶長9年(1604年)、朝鮮より正使呂祐吉以下の使節が来日するとその事務を総括した。翌慶長10年(1605年)4月秀忠が上洛し後陽成天皇より征夷大将軍に任ぜられると、随行していた利勝も従五位下大炊頭に任じられ、以後秀忠の側近としての地位を固めていった。慶長13年(1608年)には浄土宗と日蓮宗の論争に裁断を下して政治的手腕を見せ、慶長15年(1610年)1月、下総佐倉3万2000石に加増となった。この頃、老中に就任したといわれる(一説には元和9年ともいう)。
慶長20年(1615年)大坂冬の陣及び夏の陣がおきると、利勝は秀忠付きとして従軍し、豊臣家滅亡後、秀忠より猿毛柄の槍を贈られた。同年夏には青山忠俊、酒井忠世と共に徳川家光のお守り役を命じられた。元和2年(1616年)、秀忠の名で一国一城令と武家諸法度(13条)を制定した。これにより、戦国時代は終わりを告げ、諸大名は幕藩体制に組み込まれることとなった。同年家康が没し、久能山に葬られる際には利勝がその一切の事務を総括した。
[編集] 寛永の三傑、三弼、三輪
元和9年(1623年)、秀忠は将軍職を家光に譲るが、この際に吐いた言葉が「天下と共に、土井利勝を譲る」であった。将軍交代の際には側近も変わるのが通常であったが、利勝はこの後も青山忠俊、酒井忠世とトリオになり、家光を助け、幕政に辣腕を振るっていく。のちに「三傑」「三弼(さんぴつ)」「三輪」などと呼ばれるようになる。
寛永10年(1633年)4月7日に下総古河16万余石を与えられる。寛永12年(1635年)武家諸法度に参勤交代を組み込むなど19条に増やして大改訂し、幕府の支配体制を確定した。
寛永13年(1636年)、それまでの永楽通宝など明銭に頼っていた通貨制度を一新し、寛永通宝の鋳造を柱とする新通貨制度を制定した。寛永通宝は明治の中ごろまで流通していたという。翌年病気を理由に老中辞任を申し出るが、家光より慰留されて撤回。寛永15年(1638年)11月7日に、体調を気遣った家光の計らいにより、実務を離れて大老となる。「三代の名相」「智の大老」などと称され、その智謀はいささかも衰えなかった。寛永21年(1644年)6月病気にかかり、将軍代参の見舞いを受けるなどしたが7月10日没。享年72。
[編集] 評価
政治の天才といっていい人物である。無名の家から身を起こし、江戸幕府草創期の政治的課題にすべて関与し、幕府の頂点まで上り詰め、土井家16万石を一代で築き上げた。参勤交代の制度を取り入れる際には、あえて遠国の島津家に相談して言質をとったり、政敵本多正純や、徳川忠長、松平忠直、加藤忠広、坂崎直盛などの改易を主導したといわれるほどの豪腕ぶりを発揮しながら、人格的な暗さは微塵もうかがわせず、秀忠・家光をはじめとした周囲の人々に敬愛され続けた。幕閣内だけでなく、実質的に不在領主だったにもかかわらず、領地の佐倉や古河の発展に大きく貢献する事績を残し、長くその名君ぶりがたたえられている。
一方、軍事的能力は評価が難しい。年齢的に天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いには参加していないと思われ、実質的には慶長5年(1600年)関ヶ原へ向かう途中の信濃上田城攻めが初陣だったと思われる。前述したとおり、徳川秀忠軍は真田昌幸の巧妙な迎撃戦に翻弄され、関ヶ原の決戦に間に合わないという大失態を演じている。また、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、天王寺・岡山において秀忠本陣との間隙を豊臣方大野治房に突かれ、「かかれ対馬に逃げ大炊、どっちつかずの雅楽頭」と嘲笑されたほどの大混乱となった。対馬とは安藤重信(対馬守)、大炊とは土井利勝(大炊頭)、雅楽頭とは酒井忠世である。ただし、この際利勝は反攻に転じて敵首98を取り、後に秀忠から猿毛の朱槍を拝領したとも言われている。
[編集] ヒゲの話
戦国時代まで、武士は髭を生やすのが常識であった。髭は強くたくましい武者の象徴であり、生まれつき髭の薄かった豊臣秀吉は、付け髭を付けて威厳を保ったという逸話があるくらいである。
ところが、江戸時代初期に髭を生やす習慣がなくなる。このきっかけを作ったのが実は土井利勝である、というのが以下のエピソードである。
『落穂集』によると、利勝が年を取るにつれ、神君徳川家康に本当に似てきた、という噂が江戸城内に立ち、利勝も耳にした。利勝には家康の落胤説(前述)が以前から根強くあり、利勝はそれを恐れ多いことと思っていた矢先であったため、いっそのこと髭を落としてしまえば似ているといわれることもなくなるだろうと思い、その翌日にはきれいに髭を落として登城した。これを見て城内の人々は仰天した。何しろ武士は髭を生やすのが常識であった時代である。しかし、理由はわからないまでも利勝が髭を落とすのであれば自分も落としたほうが無難だろう、とあわてて真似をする者が続出した。江戸城内でこのような状況になれば、そのまた周辺の人々も真似をした、というわけで、武士が髭を生やす習慣が廃れた、ということである。
このエピソードは、如何に利勝が権勢を持っていて周辺の人々がその意を汲むことに腐心していたかをよく示すとともに、利勝の異常な出世ぶりが家康落胤説を生んだとする考えのひとつの根拠にもなるものである。
[編集] 年表
- 元亀4年(1573年)3月18日、誕生。
- 天正7年(1579年)、徳川秀忠の守役となる。
- 慶長5年(1600年)、関ヶ原へ出陣するも間に合わず。
- 慶長7年(1602年)12月28日、下総小見川1万石の大名となる。
- 慶長8年(1603年)、江戸城神田橋内に屋敷を拝領する。
- 慶長13年(1608年)12月、1万石加増される。
- 慶長15年(1610年)1月、下総佐倉3万2000石に加増転封される。8月3日、老中となる(『寛政重修諸家譜』。『柳営補任』によると老中就任は元和9年9月)
- 慶長17年(1612年)、4万5000石に加増される。
- 慶長20年(1615年)閏6月21日、6万5000石に加増される。
- 寛永2年(1625年)9月2日、14万2000石に加増される。
- 寛永10年(1633年)4月7日、16万石余をもって下総国古河城主となる。
- 寛永15年(1638年)11月7日、大老就任。
- 寛永21年(1644年)7月10日、大老のまま没。(12月16日に正保元年と改元)
[編集] 関連項目
- 古河土井家(土井宗家)
- 初代
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- 先代:
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- 次代:
- 利隆