土屋敏男
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土屋敏男(つちや としお、1956年9月30日 - )は日本テレビ放送網コンテンツ事業局次長兼PR局次長、ウェブ編集者、第2日本テレビ本部長〈商店会会長)。静岡県生まれ。静岡県立静岡高等学校卒、一橋大学社会学部卒。1979年日本テレビ放送網に入社、ワイドショーの現場を経て、バラエティ制作に。2001年7月から2003年7月まで編成部長を務め、2003年から現職に。「テレビについて広い視野で考えて、その考えを実行する仕事」を考えている。家族は長男(1983年-)と長女がいる。
演出家でタレントのテリー伊藤は師匠で、RAG FAIRの土屋礼央は甥っ子(兄の息子)。
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[編集] エピソード
- 日本テレビ採用試験で第1回の24時間テレビ 「愛は地球を救う」(1978年)をベタぼめし入社。第3回(1980年)のチャリティー部隊に入ったが、1994年の「24時間テレビ17」(この年の総合演出・CP)でビートたけしのお笑いウルトラクイズでも使われた「人間水車」を出川哲朗らにやらせ、24時間テレビの製作部門を追放された。その後、2005年8月28日の「24時間テレビ28」にて生出演して電波少年の裏話をしていた。
- ハンドルネームはドラゴン、愛称は苗字のツッチー、苗字のイニシャルを取ってT。
- また、土屋はダウンタウンの東京進出前(1986年~1990年ごろ)の東京の世話人で、他局の仕事の送り迎えもしていて、「笑っていいとも!」や「夢で逢えたら」の収録現場に日本テレビの社員なのに潜入していた。(フジテレビ側にはマネージャーと勘違いされていた。若手AD時代、バラエティ番組作りのノウハウを学ぶためにしょっちゅうフジテレビに出入りしていたらしい。フジテレビには1978年当時、番組制作部門と本社経営が分離していて入社を拒絶、その後SMAP×SMAPの特別企画にゲストとして一度だけ出演。)
- 「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングで1986年当時日本テレビアナウンサーの徳光和夫を呼んだというエピソードもある。
- 日本テレビ系で放送された「電波少年」や、「雷波少年」では、「Tプロデューサー」や「T部長」として、「スター・ウォーズ」の『インペリアルマーチ(ダース・ベイダーのテーマ)』をBGMに、「Tプロデューサー」時代は革ジャンを着て、「T部長」時代はブロンド美人秘書を従えスーツを着て、いずれも後ろ姿(なるべく顔は映らないようにしていたが、顔にモザイクをかけるなどの処理は一切なし)で番組に登場していた。また「朋友」として「アフリカ・ヨーロッパ縦断ヒッチハイク」に参加した伊藤高史は出演終了後、「インペリアルマーチ」に怯えるようになり、しばらくトラウマになったと証言している。
- 一時期、『インペリアルマーチ』を携帯電話の着信メロディにしていた。
- 編成部長時代は、スポーツ中継にまで電波少年の手法を使用し視聴者から顰蹙を買う。
- 放送作家 トキワ荘も含め電波少年系の番組が全て終了することを自ら告げた時、さすがに寂しげな表情を見せた(もちろん、本心は本人のみぞ知る、ではあるが)。
- 「ほぼ日刊イトイ新聞」で糸井重里と対談。(「おもしろ魂。」という対談集連載も)
- 2005年2月13日、TBSテレビ系列の「サンデージャポン」に出演、日テレの裏番組(いつみても波瀾万丈・@サプリッ!)や、映画「MAKOTO」(君塚良一脚本・監督)の宣伝をした。
- 2005年7月、局次長に昇格。
- 2005年9月1日、インターネットテレビ『第2日本テレビ』VOD事業部長就任。
- 2005年10月1日、日本テレビ公式サイトの編集長(T編集長)に就任。
- 2006年4月の朝まで生テレビに出演した。
[編集] 手掛けた番組
- 天才・たけしの元気が出るテレビ!!
- 欽ちゃんの仮装大賞(1986年~1998年)
- ガムシャラ十勇士
- 恋々ときめき倶楽部
- 全員出席!笑うんだってば
- ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!(1989年10月~1991年9月)
- 笑うと泣くぞ…ダハ!
- とんねるずの生でダラダラいかせて!!(初期のみ)
- 電波少年シリーズ
- ウッチャンナンチャン with SHA.LA.LA
- ウンナン世界征服宣言
- ウッチャンナンチャンのウリナリ!!
- ザ・ワイドショー
- 笑いの巨人
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 日本テレビ(トップページに顔出し、番組グッズの「日テレ屋Web」で連載あり)
- ほぼ日「おもしろ魂。」対談
- ほぼ日対談「電波少年的放送局」にて