土方豊高
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土方 豊高 (ひじかた とよたか、寛文2年(1662年) - 元禄11年5月23日(1698年6月30日))は、江戸時代中期の菰野藩土方家の世子。4代菰野藩主になるはずだったが、家督前に死去した。通称は彦丸(ひこまる)、杢助(もくのすけ)。官位はまだなかった。
寛文2年(1662年)、第3代伊勢国菰野藩主の土方雄豊の長男として生まれた。母は第2代藩主土方雄高の娘。寛文12年(1672年)5月18日にはじめて将軍徳川家綱にお目見えしたが、元禄11年(1698年)5月23日に父に先立って死去。享年37。菰野の見性寺に葬られた。法名は彗鑑院殿玄光真照大居士。
正室は宇陀松山藩主織田山城守長頼の娘で、彼女との間に女子三人と土方豊義(第4代菰野藩主)を儲けた。この遺児らはすべて父雄豊の養子となり、次女が忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩の弟浅野大学長広に嫁いだ。