堀秀治
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堀 秀治(ほり ひではる、天正4年(1576年) - 慶長11年5月26日(1606年7月1日))は安土桃山時代・江戸時代の武将・大名。堀秀政の嫡男で、弟に堀親良。子に、堀忠俊、鶴千代、季郷。
1590年、父・秀政とともに小田原征伐に参陣したが、父がそのときに陣中にて病死したため、家督を継ぐこととなった。しかし父と違って、あまり才覚に秀でた人物ではなかったという。
1592年、文禄の役では肥前国名護屋城に参陣する。1593年には伏見城工事に貢献した。これらの功績から、豊臣秀吉の死の直前の1598年、越前国北ノ庄18万石から越後国春日山30万石へ加増移封された。
1600年、関ヶ原の戦いが起こると東軍に与し、越後国内で発生した上杉景勝旧臣の一揆を鎮圧した。戦後、その功により徳川家康から所領を安堵されたという。ただし、近年では西軍側に通じていたとの疑いを持たせる書面も発見されている。
1606年に死去し、後を嫡男の忠俊が継いだ。