大久保忠世
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大久保 忠世(おおくぼ ただよ、天文元年(1532年) - 文禄三年9月15日(1594年10月28日))は戦国時代の武将であり、徳川氏の家臣。通称は新十郎、七郎右衛門。三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)の大久保氏の支流である大久保忠員の長男であり、忠世ともに武名で知られる大久保忠佐と忠教(大久保彦左衛門)は弟に当たる。蟹江七本槍の一人であり、徳川十六神将の一将をなした武将。
大久保氏は徳川家康の祖父・松平清康から松平・徳川氏に仕えるようになったといわれ、忠世の家はその支流ながら手柄の大きさから本家をしのぐようになった。忠世も永禄6年(1563年)の三河一向一揆や元亀3年(1573年)12月の三方ヶ原の戦いに参陣し、武功を挙げた。特に三方ヶ原の戦いでは、敗戦後に意気消沈する味方を励ます目的で、天野康景とともに武田の陣のあった犀ケ崖を闇夜の中銃撃して大混乱に陥れ、敵の大将である武田信玄に「さてさて、勝ちてもおそろしき敵かな」と賞賛されたという(もっともこの記述が残るのが実弟である忠教が著した『三河物語』なので、信憑性には疑問がある)。また、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいても弟忠佐とともに大活躍して織田信長からの賞賛を受け、家康からはほら貝を与えられた。同年12月、家康から二俣城の城主に命じられた。忠世は武田の来襲に備えて城の改修を行ったが、現在二俣城跡に残る天守台や、二俣城の向かいに築いた鳥羽山城の庭園などは忠世によるものと考えられている。また、天正10年(1582年)6月の本能寺の変後に家康が信濃国に勢力を広げると、忠世は信州惣奉行として小諸城に在番している。
軍事的才能ばかりでなく、政治的にも優れていた。一時期、家康に反抗して追放となった本多正信の帰参を助けたり、若くして重んじられた井伊直政を嗜めたりしている。天正18年(1590年)、後北条氏の滅亡により家康が関東に移ると、豊臣秀吉の命もあって、小田原城に4万5千石を与えられた。