大友義統
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大友義統(おおとも よしむね、永禄元年(1558年) - 慶長10年7月19日(1605年9月2日))は織豊時代の大名。大友義鎮(宗麟)の長男。
家督相続直後から島津氏らの侵攻を受けるも、豊臣秀吉の九州征伐によって豊後一国を安堵される。キリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けるが、秀吉の棄教令により棄教する。
後に秀吉から吉の字を与えられ、吉統と名乗る。
文禄の役に兵六千を率いて参戦する。明軍の大軍に包囲された小西行長から救援要請を受けたが、重臣・志賀親次の進言を受けて撤退、鳳山城を放棄した。これが秀吉の逆鱗に触れ、大友氏は見懲(見せしめ)の為、文禄2年(1593年)5月1日に改易された。その後、義統の身柄は毛利輝元に預けられた。
関ヶ原の役では毛利氏の支援を受け、西軍の将として豊後に侵攻。旧領復帰を目論むも九州にて挙兵した黒田孝高の軍に敗れる。剃髪し妹婿であった黒田家の重臣母里太兵衛の陣に出頭し降伏した。役後は出羽国の秋田氏に預けられる。死後、嫡男の大友義乗が跡を継ぎ、高家として家名を保っている。