大錦卯一郎
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大錦 卯一郎(おおにしき ういちろう、1891年11月25日 - 1941年5月13日)は、大相撲の力士で、第26代横綱。
常陸山にローマ字で入門を願う手紙を書いたところ、その返事もローマ字で書かれていたことに感動して入門。明治43年(1910年)1月場所に初土俵を踏む。四股名は故郷大坂に錦を飾れと大錦に決まったが、すでに大坂にも大錦がいるのを知っててつけたというから、大坂の大錦にとって気持ちのいいものではなかったに違いない。大正4年(1915年)1月場所に新入幕で8勝1敗1休、これは当時相手休めば自分も休みとされたことによるものであり、現在なら不戦勝だから恐るべき成績である。翌場所小結で9勝1敗、横綱の太刀山が全勝のため優勝はできなかったが関脇を飛び越して大関になった。そして大関3場所目千秋楽、全勝同士で太刀山と対戦してこれに勝ち横綱免許を獲得する。
横綱になってからも持ち前の速攻で兄弟弟子の栃木山とともに最強を誇り3連覇もあった。ところが大正11年(1922年)5月場所で優勝したのに、その翌場所の番付に名前を残しながら親方にもならずに廃業してしまう。三河島事件を内部で解決できなかったことに対して、当時力士の頂点に立つ者として責任を感じて自ら髷を落としてしまったのだ。まだ衰えたわけではなく、現役を続けていればまだ優勝回数は稼げたと思われたため惜しまれたが、前々から力士を辞めても親方になる意思はなかったことも関係して、周囲が引き止めることはできなかった。
優勝は5回、大関と横綱で1回ずつ全勝優勝も達成している。
当時の力士には珍しく中学校(天王寺中学、作家の宇野浩二が同期生である)を卒業していて、非常に頭がよかった。速攻の取り口は自分の脆さを克服するとともに、その頭脳も活かしたものであるとされた。陸軍の学校に志願したことがあったが体格ではねられたこともあった。