安倍宗任
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安倍宗任 (あべ の むねとう、長元5年(1032年) - 嘉承3年2月4日(1108年3月18日))は、平安時代・陸奥国の俘囚の長とされる豪族、安倍氏の安倍頼時の子。鳥海柵の主で、鳥海三郎とも呼ばれる。安倍貞任の弟。娘は奥州藤原氏2代藤原基衡の妻。
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[編集] 前九年の役
奥州奥六郡(岩手県内陸部)を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦う(前九年の役)。一族奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害されるが、宗任らは降服し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという。(平家物語剣巻)
[編集] 配流
四国の伊予国に流され、現在の今治市の富田地区に3年間居住し、その後少しずつ勢力をつけたために、1067年に九州の筑前国宗像郡の筑前大島に再配流された。その後、宗像の大名である宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たしたと考えられる。また、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建てた。そして、1108年2月4日に77歳で亡くなった。
[編集] 子供・子孫の行方
[編集] 長男・安倍宗良
宗良は大島太郎・安倍権頭として、大島の統領を継いだ。その子孫の安倍頼任は、九州の剣豪として知られ、秋月氏に仕えた。
[編集] 次男・安倍仲任
仲任は、薩摩国に行ったとされる。
[編集] 三男・安倍季任
季任は肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。その子孫は北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれている。
[編集] 子孫
松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍し、その為、治承・寿永の乱により、現在の山口県長門市油谷に流罪となった。その後、高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害から逃れる為に安倍姓を名乗った。その子孫に政治家の安倍晋太郎・安倍晋三親子がいる。
[編集] 故事
岩手県盛岡市出身の貴族院議員で第18・22代東京府知事阿部浩は、平家物語にある安倍宗任と梅の故事にならい、安倍氏ゆかりの盛岡市安倍館町に別邸を建て、吾郷楳荘(現・一ノ倉庭園)と名づけた。扁額の揮毫は伊藤博文で、現在は盛岡市原敬記念館が所蔵。