小田為綱
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小田為綱(おだ ためつな、天保10年(1839年) - 明治34年(1901年))は、岩手県九戸郡宇部村(現:久慈市宇部町)出身の学者・教育者・政治家。通称は仙弥。
昌平黌に学んだ後、盛岡藩の藩校である作人館の教授・寮長となり、原敬らを指導する。明治維新後、北奥羽開拓の構想を建白するが顧みられなかった。 明治10年(1877年)の西南戦争に呼応して、東北地方での士族挙兵の計画に参画するが未然に検挙され(首謀者の神職の名から「真田太古事件」と呼ばれる)、他の参加者らとともに禁固刑に処せられた。明治31年(1898年)には衆議院議員に当選するが、任期中の明治34年(1901年)に没した。
明治13年(1880年)から翌年にかけて作成されたとされる「憲法草稿評林」は、民権論的な私擬憲法として注目される。
[編集] 関連書籍
- 『もう一つの天皇制構想―小田為綱文書「憲法草稿評林」の世界』 小西豊治著 御茶の水書房 (1989年) ISBN 4275013026
- 『小田為綱の研究』 大島英介著 久慈市・熊谷出版印刷部 (1995年) ISBN番号無し
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