小笠原忠嘉
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小笠原 忠嘉(おがさわら ただひろ、天保10年2月29日(1839年4月12日) - 万延元年6月25日(1860年8月11日))は、豊前国千束藩(小倉新田藩)の第7代藩主。豊前小倉藩の第8代藩主。父は千束藩の第5代藩主・小笠原貞哲(忠嘉は四男)。母は新井氏。正室、側室ともになし。官位は従四位下。右近将監。千束藩主時代の名乗りは貞嘉(さだひろ)。
1839年2月29日、江戸で生まれる。幼名は直之進。千束藩の先代藩主で兄に当たる小笠原貞謙が1851年に若死にしたため、その後を継いで藩主となり、貞嘉と名乗った。1854年、本家の小倉藩主・小笠原忠徴の養嗣子となって忠嘉と改名する。そして本家の後継ぎとなったため、千束藩主の座は兄の小笠原貞寧が継ぐこととなった。
1856年、養父の忠徴が死去したため、その後を継ぐ。先代の忠徴は藩政改革を行なって成功していたため、この頃の小倉藩では白黒騒動での衰退などから再建が進んでおり、忠嘉の治世は先代藩主の藩政改革の下でさらに殖産興業政策が推し進められ、軍備も充実し、金山開発を再興したり薬剤を独自に開発して、それを領民に無料で処方するなど、藩政の再建が進んだ。しかし白黒騒動の余波は大きく、忠嘉の時代にも家臣団は二派に分かれて派閥争いを繰り返していたと言われている。
1860年6月25日(幕府の届出は10月26日)、22歳の若さで死去し、後を小笠原忠幹が継いだ。法号:義峯院殿高鑑道隆。墓所:北九州市小倉北区の広寿山福聚寺。