尼子政久
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 長享2年(1488年)? | |||
死没 | 永正15年9月6日(1518年10月10日) | |||
別名 | 又四郎(幼名) | |||
戒名 | 不白院殿花屋常栄居士 | |||
墓所 | 八雲村常栄寺 | |||
官位 | 民部少輔 | |||
氏族 | 尼子氏 | |||
父母 | 父:尼子経久、母:吉川経基の娘 | |||
兄弟 | 弟:尼子国久、塩冶興久 | |||
妻 | 正室:山名兵庫頭の娘 | |||
子 | 尼子晴久 |
- 生年は1494年という説もある。
[編集] 生涯
父の尼子経久は、尼子氏を1代で大大名にのし上げた戦国大名として有名であるが、この政久も父に劣らず智勇兼備の優れた名将であった。また、軍略だけでなく笛などの文才においても優れた教養人であり、時の後土御門天皇からもその文才を高く評価されている。経久が一代で尼子氏を強大化することができたのは、自身の優秀さだけではなく、嫡男の政久における才能によるところも大きい。
ところが、政久の運命は暗転した。永正15年(1518年)、尼子氏の勢力拡大を恐れた桜井宗的が磨石城にて反旗を翻した。経久は政久を総大将とした軍勢を派遣して磨石城の一気攻略を目指したが、堅城であったために尼子の大軍をもってしても容易には落ちなかった。しかも、長期戦の呈を擁し始めたため、尼子軍内部で厭戦気分が流れ始めるが、政久は得意の笛の音をもって味方の兵を鼓舞し、磨石城を激しく攻め立てた。ところが、この笛の音が政久の命取りとなった。城兵側が笛の音が聞こえるほうに向かって矢を放ったのだ。その一発が政久の喉に当たり、政久は即死してしまったのである。享年31。
[編集] 人物・子孫
- 経久は将来を期待していた政久の死を悲しむと同時に、復讐として子の尼子国久に命じて磨石城を激しく攻めさせた。城兵は降伏すら許されず、宗的をはじめとする全てが虐殺されたと言われている。また、経久は政久の系統が断絶することを惜しみ、彼の子・尼子晴久に家督を譲っている。政久の法号は、墓地は。
- 政久は、夭折してしまったことと父が偉大すぎたために隠れた名将となっているが、もし彼が経久の後を継いでいたら、尼子氏はさらなる発展を遂げたかもしれない。
- 彼の嫡男・晴久の代には遠征の失敗や、弟の国久率いる新宮党との抗争によって勢力が衰退することになった。