山川浩
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山川浩(やまかわ ひろし、弘化2年(1845年)~明治31年3月6日)は明治時代の陸軍軍人。官位は陸軍少将男爵。陸軍省総務局制規課長を最後に予備役となり、以後貴族院議員を務める。 父は会津藩家老山川尚江重固、母は会津藩家臣・西郷近登之の娘である唐衣。弟妹に山川健次郎、山川二葉、山川捨松らがいる。初名を大蔵(おおくら)といい、与七郎、常盤とも称した。諱は「重栄」、字は「士亮」。「浩」は明治以降に改名した物である。
万延元年(1860年)に父・尚江が死去したため家督を継ぐ。文久2年(1862年)に藩主・松平容保が京都守護職を拝命したのに伴い京へ同行する。4年後の慶応2年(1866年)に江戸幕府の使者と同行しロシアに渡航。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いを経て江戸、会津と転戦。この頃に会津藩若年寄となり戦費の調達、藩兵の西洋化などに尽力した。会津戦争では板垣退助率いる新政府軍を破るという金星を挙げるが、8月22日に会津若松城が包囲されていることを知り、会津地方の伝統芸能である彼岸獅子を先頭で演じさせて加勢を入城させるという離れ業を演じた。この功績によって防衛総督に任じられるも加勢を持ってしても多勢に無勢は明らかで、妻のトセが爆死し、会津若松城は落城。その後禁固謹慎の身となる。明治3年に斗南藩の大参事(家老職)となるが、藩士総数に対して実収は少なく、浩自身も妹・咲子(後の捨松)を函館に口減らし同然に里子に出すなどの苦労を重ねる。
廃藩置県後は地元の青森県に出仕していたが、戊辰戦争での活躍を見ていた谷干城の推薦により明治4年には陸軍に出仕。明治6年に陸軍少佐に昇進して熊本鎮守府に移り、明治7年の佐賀の乱の鎮圧に活躍する。明治10年の西南戦争では盟友でもあった谷干城の救出に活躍しこの功績で明治13年には大佐に昇格した。が、この時の怪我が元で後に左手の自由を失っている。ちなみに山川浩自身は西南戦争を「会津藩名誉回復の戦争」と考えていたらしく「薩摩人、みよや東の丈夫(ますらお)が提げ佩く太刀の利(と)きか鈍きか」という和歌を残している。
明治18年、森有礼の命により陸軍に在籍したまま東京高等師範学校校長と女子高等師範学校校長に任命された。その後少将まで昇進。明治23年には貴族院議員となったが、厳格な浩は谷干城、曽我祐準と共に「貴族院三将軍」と言われて恐れられていた。晩年に軍隊・教育での功績により男爵となる。
このように栄進した浩ではあったが、妹の山川捨松がアリス・メイベル・ベーコンに送った手紙や柴五郎の回顧などによると、元家老であった浩の元には常に元会津藩関係者が寄宿しており、また、出世した浩に対して一種のたかりのように仕送りをせがむ親戚もいたようで、晩年まで生活は非常に苦しかったという。
死ぬまで会津藩に忠誠を捧げた浩であるが、一方で非常に反骨心のある人物であり、会津藩の藩学であった朱子学は嫌いで陽明学を学んでいたという一面があった。
生前に幕末の一級史料である『京都守護職始末』を書いたが、浩自身は草稿の段階で没し、実際は弟の山川健次郎によって仕上げられたというのが定説となっている。ちなみにこの本で初めて「孝明天皇より松平容保に渡された勤王の詔勅」なる物が明らかにされ、出版前にこれを見て驚いた三浦梧楼が口止め料として松平家に3万円という当時としては前代未聞の大金を渡している。しかしそのために『京都守護職始末』自体は明治44年まで出版が出来なくなってしまった。
[編集] 関連項目
- 斎藤一 一の長男の命名をするなど、晩年まで親交があった。