市川左團次 (初代)
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初代市川左團次(しょだい いちかわ さだんじ、天保13年10月28日(1842年11月30日) - 明治37年(1904年)8月7日)は歌舞伎役者、立役。本名高橋栄三、俳名筵升、定紋は松蔦、屋号高島屋。
大阪道頓堀生まれ。父は歌舞伎役者の結髪師中村清吉。7歳のとき市川辰蔵の名で初舞台。のち七代目市川團十郎門下で市川小米。1862年(文久2年)市川升若と改名。ちんこ芝居で修業するうち、その才能が周囲に認められ1864年(元治元年)、四代目市川小團次の養子となる。始め、兄市川米蔵(のち三代目中村寿三郎)に養子の話があったが交渉にうまくいかず、そのとき、江戸中村座の関係者が偶々居あわせた升若の美貌にほれ込み、養子にしたという。
江戸に下り、市川左團次と改名。翌1865年(元治2・慶応元年)正月に中村座『鶴寿亀曽我嶋台』で、信田小太郎・小林朝比奈役で江戸にデビュー。記録に依れば、左團次が編笠を取ると、その美しい容貌に観客が湧いたが、次に上方訛りの口調に観客は失望して野次が飛んだとある。これ以後、左團次はスランプに陥り、養父小團次の死後は舞台から追われ、養母お琴は離縁して帰阪することまで考えた。だが、養父の親友である河竹新七(後の河竹黙阿弥)が身柄を預かり、左團次は一から指導を受け、ようやく舞台に復帰するようになる。1870年(明治3年)3月の守田座『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)の丸橋忠弥役が大当たりとなる。、この芝居には左團次演じる丸橋忠弥の一人舞台、『江戸城堀端の場』が作られていて、共演者や劇場関係者からの苦情が出るも、新七は文字道り進退を掛けて説得し、ふたを明けて見ると、件の『堀端』と『忠弥内捕物の場』とが最も評判がよかった。立役で、新作の史劇に本領を発揮。明快な口跡、立ち回りが見事で、男性的な芸風であった。当り役は出世芸となった『慶安太平記』の丸橋忠弥・『大盃』の馬場三郎兵衛、父譲りの村井長庵、『勧進帳』の富樫、『白浪五人男』の南郷力丸、『籠釣瓶』の佐野次郎左衛門など。九代目市川團十郎・五代目尾上菊五郎とともに「團菊左」と並び賞され、1887年(明治20年)には天覧の歌舞伎上演。1890年(明治23年)には新富座の座頭になるなど栄光に包まれる。
1893年(明治26年)には明治座を新築し、座頭として近代的な劇場経営を行う。新作物中心の興行を推進し、1899年(明治32年)明治座で松居松翁作『悪源太』が左團次らによって初演。これは、旧来の慣例を破って、芝居関係以外の者による脚本の採用を実施したもので、二代目左團次以降による新作歌舞伎の原動力となる。私生活では、温厚な人格者として周囲の尊敬を集めていた。1904年(明治37年)5月、明治座『敵国降伏』の漁師弥藤太役を最後に、8月新富町の自宅で死去。それは江戸歌舞伎の終焉でもあった。実子が二代目市川左團次。門人に二代目市川松蔦。市川筵女など。兄弟に初代市川右團次。五代目市川小團次、初代市川荒次郎がいる。