平滋子
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平滋子(たいらのしげこ、1142年(康治元年) - 1176年8月14日(安元2年7月8日))は、後白河天皇の女御。高倉天皇の生母。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔平時信(贈左大臣)、母は中納言藤原顕頼の女祐子。大納言時忠、二位尼時子(平清盛の後妻)の異母妹にあたる。女院号は建春門院(けんしゅんもんいん)。
はじめ上西門院統子内親王(後白河天皇の同母姉)に仕える女房で、名を小弁局といったが、後白河上皇の目に留まり、永暦二年(1161)、皇子・憲仁親王を産む。仁安元年(1166)従三位に叙され、翌年上皇の妃でありながら女御宣下。仁安三年(1168)、憲仁親王が高倉天皇として即位すると、翌年建春門院という院号を宣下される。後白河法皇の寵愛ぶりは、他の后たちとは比べ物にならなかったほどであり、厳島神社を始めどこへ行くにも滋子を伴ったという。その縁で義兄・平清盛は後白河上皇と協調関係を保ち、平家は栄達を見せた。滋子の協力で清盛と異母姉・時子の娘徳子が後白河法皇の猶子となり、ついで高倉天皇の中宮となった。しかし、安元二年(1176)、脚気がもとで35歳で亡くなり、これをきっかけに後白河法皇と平清盛の関係は急速に悪化した。
滋子は美しく、人となりも良かったと『建礼門院右京大夫集』『たまきはる』はいうが、『平家物語』は、彼女が嫉妬したために後白河皇子以仁王は親王宣下すら受けられず平家への憎悪を増したと、別の一面を伝えている。
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