平野国臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平野 国臣(ひらの くにおみ、1828年(文政11年) - 1864年8月21日(元治元年7月20日))は、幕末期の福岡藩の藩士。名は種言、種徳。通称は次郎。巳之吉。平野国臣の生家の小金丸氏は、大蔵春実の三男の大蔵種季の子の小金丸種量の子孫で、本姓は大蔵氏であり、平野国臣の正式な名のりは大蔵種徳(おおくら・の・たねのり)。
福岡藩士の小金丸穂徳の次男として生まれた。1858年、尊王攘夷思想に強く傾倒して脱藩し、京都に潜伏した。1862年、同志を集めて京都で挙兵しようとしたが寺田屋事件で失敗し、捕らえられて投獄された。翌年に赦免されたが、かれの尊王攘夷に対する熱望はその程度で収まらず、公卿の一人・沢宣嘉を擁して但馬国生野で挙兵した(生野の変)。しかしまたも敗れ、京都六角獄舎に投獄された。
1864年、禁門の変で京都が混乱するなか、未決のまま幕吏の判断で獄中において斬首された。享年37。明治24年、正四位を贈られた。
詠歌に「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」がある。
過激すぎる尊王攘夷思想が、かえって我が身の災いとなったのである。
福岡市中央区の西公園に銅像が、京都市上京区の竹林寺に墓がある。