幼児虐殺
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幼児虐殺(ようじぎゃくさつ)は新約聖書の『マタイによる福音書』2章16節~18節にあらわれるエピソードで、新しい王(イエス・キリストのこと)がベツレヘムに生まれたと聞いて怯えたユダヤの支配者ヘロデ大王がベトレヘムで二歳以下の男児を全て殺害させたとされる出来事。キリスト教では伝統的にこの幼児たちをイエスのために命を落とした最初の殉教者であるとみなしてきた。カトリック教会では「幼子殉教者」(おさなごじゅんきょうしゃ、ラテン語インノケンティ)として聖人であり、12月28日に記念されている。
[編集] 概説
マタイ福音書によれば、ヘロデ大王は星を見て救い主の誕生を知り、拝もうとやってきた東方の三博士たちから「新しい王」の話を聞いた。王は自分の地位を脅かされることを恐れ、いっそ殺してしまおうと考えた。そこでベトレヘムで二歳以下のすべての男子を殺害するよう命じ、実行させた。これはエレミヤ書31章15節にある『ラマで声が聞こえる。すすり泣きとうめき声が・・・』という預言の成就であるとマタイ福音書は書く。イエスの両親ヨセフとマリアはお告げでこの危機を知り、エジプトに逃れたためイエスの殺害を免れた。
ある人々はマタイ福音書のこのような記述は事実ではなく、イエスの生涯を旧約聖書の預言の実現として描こうとするマタイの意図によって創作されたエピソードであると考える。なぜなら、フラウィウス・ヨセフスなどの一般の歴史家の記述はおろか、他の福音書にすらこの幼児虐殺のエピソードは記されていないからである。
たとえ事実であったとしても当時のベトレヘムは本当の寒村であったため、ごく小さな規模の出来事であったと考えられる。ある学者は300人程度、聖書学者レイモンド・ブラウンはせいぜい1000人程度であったと考える。そう考えればどんなに多く見積もっても殺害されたのは20~30人程度であったのではないかと推測される。当時の専制君主はそれを越える規模の非道な行為をしばしば行っていたため、ヨセフスや他の歴史家に書かれなかったのではないかと考えることもできよう。
古代キリスト教において、この幼子殉教者たちの数はしばしば誇大化して扱われた。ビザンティン典礼では14000人とし、シリア教会での聖人伝には64000人と記されていた。現代の研究者は当然このような数字は過度の誇張であると考えている。
[編集] 芸術作品
幼児虐殺は(幼児に対する暴力と言うショッキングなテーマながら)ジョット・ディ・ボンドーネなど多くの芸術家たちの画題となってきた。たとえばルーベンスは一度ならず『幼児虐殺』の絵を描いているが、その中の一枚は2002年、ケネス・トムソンによって4950万ポンドで落札され、史上もっとも高額で取引された絵の一つであるとされている。
音楽ではイギリス中世の『コヴェントリー・キャロル』がこの件を歌っている。