広沢局
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広沢局(ひろさわのつぼね、元亀3年(1573年) - 寛永14年(1637年)は、肥前垣添城主名護屋経勝の娘で豊臣秀吉の側室。名は広子。
広子は20歳だったがまだ独身で、朝鮮出兵のため、1592年の四月に名護屋城に来た秀吉の側室になった。 その後、秀吉は山里丸の一角に広沢寺を建立した。広沢局が眼病治癒のお礼に仏像を祀ったのがきっかけだとされる。1593年の八月に秀吉は大阪に帰り、名護屋城には二度と戻ってこなかった。 1598年、彼女はなおも名護屋城の山里丸に住んでいたが、八月に秀吉が死去すると、既に兄の名護屋経述が死去していた事もあり、出家した。1637年に広子は死去した。