張騫
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張騫(ちょうけん ? - 紀元前114年)は中国前漢代の人。武帝の命により匈奴に対する同盟を説くために大月氏へと赴き、漢に西域の情報をもたらした。子に匈奴の女性との間に生まれた張朋(月氏と二重の関係となる意味が含むらしい)がいるという。
張騫は漢中(顔師古注によると成固)の出身で、建元年間(紀元前140年-紀元前135年)に郎となる。当時の漢では大月氏に対して、対匈奴の同盟を説く使者を募集しており、張騫はこれに自薦して見事に選ばれた。
大月氏はかつては単に月氏と呼ばれ、匈奴と争っていたが冒頓単于に攻められて大敗し、冒頓の子の老上単于の軍に敗れて王が殺され、老上はその王の頭蓋骨をくりぬいて杯にしたと言う。その後、月氏の一部は北へと逃れた。
漢はこのようなことから大月氏はきっと匈奴のことを恨んでいるに違いないと考え、匈奴の挟撃作戦を狙って張騫を使者に送ったのである。このことはあまりに唐突な大抜擢であるが、恐らく武帝はこの使者に大した期待はしていなかったのではないだろうか。漢からすると大月氏のいる場所はあまりに遠く、かつ匈奴の勢力圏を挟んでいるために情報もほとんど入ってこなかった。であるからこの張騫の派遣はうまくいったら良いという程度の考えで行ったのではなかろうか。
漢の勢力圏である隴西(甘粛省)から出た直後に匈奴に捕らえられる。匈奴の軍臣単于は張騫の目的が大月氏への使者であると知ると「月氏は我々の北にいるのだ。どうして漢がそこへ使者を送れるだろうか。もし吾が漢の南の越へ使者を出したいと思って、漢はそれを許すか?」と言い、張騫をその後十余年間に渡って拘留した。匈奴は張騫に妻を与え、その間に子供も出来たが、張騫は漢の使者の証である符節を手放さなかった。
その後、匈奴の地から脱出に成功。西へ数十日走った所で大宛(フェルガナ)に至った。この地の王は漢の財力が豊かであると聞き及んでいたので張騫が来た事を喜び、歓待して大月氏までの道を教えてくれた。
大月氏は匈奴に追われて北に逃げた後に、烏孫に追われて更に西へと逃げていた。張騫は康居へと立ち寄った後についに大月氏の町へとたどり着いた。
月氏の王に漢との同盟を説いた張騫だが、月氏王はこれを受け入れなかった。何故なら月氏が逃げてきたこの地は物産が豊かであり、周りにこれと言った敵もおらず、月氏は大夏(バクトリアであるという説とトハラ人の国であると言う説がある)を服属させて大いに栄えており、匈奴への復讐心はもはや過去の物となっていたからである。
失意の張騫は帰りの道筋に崑崙山脈を伝って行き、羌族の支配地を通ることを選んだが、またしても匈奴に囚われる。一年余りして軍臣単于が死去した隙を突いて脱出、紀元前126年に遂に漢へと帰還した。出発の時に100人余りいた随行員がこの時には二人になっていた。
同盟こそならなかったものの張騫が持ち帰った西域の知識は極めて貴重なものであり、それまでまったくと言って良いほど状況が解らなかった西域が、これ以降は漢の戦略の視野に入ってくることになる。この功績により太中大夫とされる。
紀元前123年、武帝は大将軍衛青率いる匈奴への遠征軍を出発させる。この中で張騫は自らの地理知識を活かして大きく貢献し、衛尉・博望侯とされる。しかし紀元前121年の遠征の際に期日に遅れた罪で死罪となる所を贖って庶民に落とされる。
また張騫が西域を旅している途中で蜀(四川)名産の竹と布を現地の人が持っているのを見てどうやって手に入れたのかを聞いた所、身毒(インド)の商人から買ったと言う。このことにより蜀から雲南→ビルマを通ってインドへと繋がるルートがあることを知った張騫は武帝に対して雲南を漢の支配下に入れ、このルートを通じて西域と繋がり、匈奴へ対抗することを長安に帰ってきた直後から何度も進言した。
更に別の方策として烏孫と同盟することを考え、紀元前119年に烏孫への使者として赴いた。
紀元前114年、死去。死後に張騫の打った策が徐々に実を結び始め、西域諸国は漢へ交易に訪れるようになり、漢は匈奴に対して有利な立場を築くようになる。