思想家
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思想家(しそうか)とは、広義には、自分の考えを(文章として)発表する人を全般的に指す。狭義には、とりわけ社会問題に関心が強い人を思想家と呼ぶ。
[編集] 哲学者と思想家
哲学者(てつがくしゃ)は哲学という学問的方法論に基づき、存在や認識に対する強い疑問を解決するために自説を展開する。その思考は基本的に自己充足的であり、論理的な整合および内省を重んずる。デカルトは自らが提示した「暫定道徳」のうちで、「社会の秩序を変革するより、自らの秩序を変革する」旨の態度を定めている。
ヘーゲルを最後の哲学者とすれば、それ以降は、哲学者ではなく思想家の時代といえるかもしれない。例えば、現代思想の源流ともされるマルクス、ニーチェ、フロイトなどはその始まりであろう。マルクスは、「フォイエルバッハに関するテーゼ」において、「哲学者たちは世界を様々に解釈してきたにすぎない。重要なのは世界を変革することである」と宣言しているが、これなどは思想家としてのマルクスの性格を如実に現している。つまり、「世界を解釈する」哲学者(その最高峰としてのヘーゲル)に対して思想家は、解釈の現実的、実践的な基盤や根拠を問う。ニーチェはそれを「ルサンチマン(怨恨)感情」であり、フロイトは「リビドーの発露」とした。
中島義道は、『哲学の教科書』の中で、日本における「哲学者」と見なされがちな知識人の大半を「思想家」に分類する。中島によれば、柄谷行人や浅田彰、今村仁司や三島憲一は全て思想家に分類されるべきである(むろん、自ら哲学者を名乗っているわけではない人も多い)。なぜなら、彼らは哲学というものを外側から見ており、自説の装置の一部として使用しているにすぎないからである。これはなにも、彼らが哲学者でないということでその思想の重要性を喪う、ということを意味しているわけではない。デカルトやカントのような「単に存在や認識が気にかかって仕方ない人」とは根本的に違う目的で思想を展開している、ということにすぎない。
思想家は学問の枠に囚われずに、より広い視野から自説を展開し執筆することが多い。ただ、時代や個人によって思想家と哲学者の境界は揺らぎ、一概に決めることができない。
19世紀後半から20世紀半ば頃まで、思想家は社会の木鐸として、あるいはイデオローグとして大きな力を持ったが、イデオロギーの退潮とともに、その影響力は低下している。