悟り
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悟り(さとり)
- 仏教などインドの宗教における悟り。以下詳説する。
- 1.から転じて事物の真の意味を理解すること。知らなかったことに気がつくこと。覚りとも。
- インドの宗教以外宗教的な悟り、迷妄を払い去って、永遠の真理を得ること
基本教義 |
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縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
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部派・宗派 |
原始仏教、上座部、大乗 |
地域別仏教 |
経典 |
聖地 |
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ウィキポータル |
悟り(さとり)は、菩提・開悟・阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、Anuttara samyaksaMbodhi)・無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)ともいう。また、悟りを開いた者を仏陀・仏・覚者などという。その意味の違いが宗教・宗派の違いであるということもできる。
悟りは段階的な手順を得て起きるとする場合と、悟りは瞬時に起きるとする場合がある。それぞれの立場の人達によりどちらが本当かの議論がされてきている。しかし、これはどちらもあり、その方法により悟りの起き方が異るとする立場もある。仏教の一つの支流である中国禅にも段階的な悟り(漸悟)を説く派である北方禅と、突然の悟り(頓悟)を説く派である南方禅に分かれた時期があったが、北方禅は先に廃れたため、日本に伝わるのは、突然の悟りを説く南方禅である。また、禅では悟りと大悟が区別されている。
目次 |
[編集] 仏教
仏教の悟り (さとり、覚り、bodhi、बोधि (sanskrit))は、「覚悟」「証(しょう)」「修証(しゅしょう)」「証得(しょうとく)」「証悟(しょうご)」「菩提(ぼだい)」「道(どう)」などの別称がある。
真理(法)に目覚めること。迷いの反対。さとりは仏教の究極目的であり、悟るためにさまざまな修行が説かれ実践される。仏教の悟りは智慧を体としており、凡夫(ぼんぶ)が煩悩(ぼんのう)に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻(りんね)を続けているのは、それは何事にも分別(ふんべつ)の心をもってし、分析的に納得しようとする結果であるとし、輪廻の迷いから智慧の力によって解脱(げだつ)しなければならない、その方法は事物を如実(にょじつ)に観察(かんざつ)することで実現する。これが真理を悟ることであり、そこには思考がなく、言葉もない。
釈迦(しゃか)は多くの哲学者や宗教家の教えを受け、苦行にも専念したが悟りを得られなかった。そこで今までの修行法をすてて、尼連禅河(にれんぜんが)のほとりで村娘スジャータから乳粥(ちちがゆ)の供養(くよう)を受けて河を渡り、対岸のピッパラ樹の下で坐禅をして真理を悟ることができた。釈迦は悟った者(覚者)、すなわち「仏陀(ぶつだ)」になったのである。
この悟りの境地を「涅槃(ねはん)」といい、それは「寂静(じゃくじょう)」であるとされる。煩悩が制御されているので、とらわれのない心の静けさがあるということである。
また、悟りを求める心を菩提心という。悟りを求める点では部派仏教も大乗仏教も共通であるが、自分のさとりを追求する部派仏教の場合、声聞(しょうもん)は四諦(したい)の教えを聞いて修行し、縁覚(えんがく)は十二因縁を覚ってそれぞれ解脱するとする。
また「覚り」とも言い、部派仏教の旧訳(くやく)ではサンスクリット語「vitarka」の訳である。vitarkaは「尋」とも訳し、対象を推しはかって分別する麁(あら)い心の働きをいう。一方、細かい心の働きを「vicaara」(旧訳では観(かん)、新訳では伺(し))といい、両者は対になって用いられる。この両者はともに定心(じようしん)を妨げるが、禅定の深まりによって消滅する。
大乗経典では「覚り」は「bodhi」の訳で「菩提」と音写され、覚り、もしくは覚りの智慧を表す。古くは「道(どう)」「意」「覚意」などと訳された。大乗仏教では自分の悟りは他人のさとりを前提に成立するという立場から、六波羅蜜(ろくはらみつ)という利他行を実践する菩薩行(ぼさつぎょう)を強調する。悟りは固定した状態ではなく、悟りの行は、自利と利他の両面を願って行動し続けることであり、自らの悟りに安住することなく、悟りを求める人々に実践を指導するために活動し続けた釈迦の姿が想定されており、活動していくことに悟りの意味を求めているのが、大乗仏教の菩薩の特徴である。そして菩薩の悟りは声聞や縁覚と違い、究極最高のものであるとして「阿耨多羅三藐三菩提」「無上正等正覚」、あるいは単に正覚と呼ばれる。
中国撰述とされる『大乗起信論 』では、阿頼耶識(あらやしき)に不覚と覚の二義があるとし、覚をさらに始覚(しかく)と本覚(ほんがく)とに分けて説明する。
我々の心性(しんしょう)は、現実には無明(むみょう)に覆われ、妄念にとらわれているから不覚であるが、この無明が止滅して妄念を離れた状態が「覚」であるという。ところで、無明は無始以来のものであるから、それに依拠する不覚に対しては「始覚」といわれるが、われわれの心性の根源は本来清浄な覚りそのもの(「本覚」)であって、それがたまたま無明に覆われているから、始覚といってもそれは本覚と別のものではなく、始覚によって本覚に帰一するに過ぎない、と説明する。つまり、誰にでも覚りに至る道は開けており、それに向かっての修行が必要なことを説いているのである。さらに、覚りは清浄なものであることも説明されており、この論書の特長である。
[編集] ジャイナ教
[編集] ヒンドゥー教(バラモン教)
ヒンドゥー教は非常に雑多な宗教であるが、そこにはヴェーダの時代から続く悟りの探求の長い歴史がある。
仏教に対峙するヴェーダの宗教系で使われる悟りは意識の状態で、人が到達することの出来る最高の状態のいくつかを言う。サンスクリットのニルヴァーナ(涅槃)に相当する。光明または大悟と呼ばれることもある。悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることから、光明と呼ばれる。
インドではヴェーダの時代から、「悟りを得るための科学」というものが求められた。それらは特に哲学的な表現でウパニシャッドなどに記述されている。古代の時代の悟りを得た存在は特にリシと呼ばれている。
ニルヴァーナには3つの段階が存在するといわれ、マハパリ・ニルヴァーナが最高のものとされる。悟りと呼ぶ場合はこのどれも指すようである。どの段階のニルヴァーナに到達しても、その意識状態は失われることはないとされる。また、マハパリ・ニルヴァーナは肉体を持ったまま得るのは難しいとされ、悟りを得た存在が肉体を離れる場合にマハパリ・ニルヴァーナに入ると言われる。
悟りを得た存在が肉体を離れるときには、「死んだ」とは言われず、「肉体を離れる」、「入滅する」、「涅槃に入る」なとど言われる。
悟りという場合、ニルヴァーナの世界をかいま見る神秘体験を指す場合がある。この場合はニルヴァーナには含まれないとされ、偽のニルヴァーナと呼ばれる。偽のニルヴァーナであっても、人生が変わる体験となるので、偽のニルヴァーナを含めて、ニルヴァーナには4つあるとする場合もある。
現在でも、ゴータマ・ブッダの時代と同じように山野で修行を行う行者が多い。どんな時代にでも多くの場所に沢山の数の悟りを得た(と自称している)存在に事欠かない。
通常、悟りを得たとする存在もヒンドゥー教、またはその全段階のバラモン教の伝統の内にとどまっていた。しかし、特にゴータマ・ブッダの時代はバラモン教が司祭の血統であるブラフミン(バラモン)を特別な存在と主張した時で、それに反対してバラモン教の範囲から飛び出している。同時代にはジャイナ教のマハヴィーラも悟りを得た存在としており、やはり階級制であるカーストに反対してこれを認めず、バラモン教から独立している。
[編集] キリスト教
キリスト教の伝統には“悟り”は含まれていないが、聖人と呼ばれる人々の中にはそれに近い領域にいると思われる人がいる。また、僧侶がする修行の中にはヴェーダの宗教の瞑想に似たものも含まれている。
また、近年「自己喪失の体験」を書いたバーナデット・ロバーツはごく普通の主婦でありキリスト教を信じるものとしての体験をまとめている。これは悟りのプロセスとして知られているものに非常に近いか同一である。一般的な言葉で非常に客観的に自分に起きたプロセスをまとめている。ヴェーダの単語を使っていないのでなじみのない者に理解がしやすい。
ヴェーダの宗教の系統では、イエス・キリストを悟りを得た存在として尊重する場合がある。
[編集] ニューエイジ
近年の欧米で、キリスト教徒として留まったままでキリスト教の枠組みから外れて宗教的探求をする運動があり、ニューエイジと呼ばれているが、それらの人々によって悟りの概念が取り入れられ、イエス・キリストをある種の悟りを得た存在としてとらえる場合もある。
[編集] イスラム教
一般のイスラム教には悟りの伝統は含まれていないが、特にイスラム教神秘主義とも呼ばれるスーフィーは、内なる神との合一を目的としており、そのプロセスは悟りのプロセスのいずれかに近い。しかし、神との合一を成し遂げたスーフィの中には「我は神なり」と宣言して一般のイスラム教徒に処刑される場合がある。
[編集] 悟りと似た意味の言葉
- モクシャ (解脱) - モクシャには自由の意味があり、最終的な自由を得ることをさす。また、天国と地獄を超越した場所として、モクシャを指す場合もある。モクシャは、天国に入るという事ではなく、天国と地獄を超越した場所にはいることを示す。
[編集] 光明を得たとされる人
古代
- マハヴィーラ (ジャイナ教開祖)
近代
- ラーマクリシュナ (インドの神秘思想家)
現代
- クリシュナムルティ (瞑想的思想家)