新田貞善
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新田 貞善(にった さだよし)【維新以前は 由良 貞善(ゆら さだよし)】(嘉永6年(1853年)1月- 明治10年(1877 年)3月9日)は、江戸時代の高家旗本・由良貞時の嫡男。童名は由良小太郎のち新田小太郎。またの通称を新田雅楽亮。
江戸の由良家邸に於いて誕生。実弟乙次郎貞觀とは双生児。 慶応4年(1868)春、養祖父貞靖、父貞時と共に新田姓に復す。新政府では病身の父の代理として、若年ながら参内。 明治6年(1873)に父の跡式を相続した貞善は、父同様に新政府に対して自らが新田義貞の嫡流であることを重ねて主張。支流・横瀬貞篤と共に新田氏の顕彰に努めるも、一女を残して(のち早世する)明治10年(1877年)7月18日に25歳で卒去。
葬儀は神葬祭で執り行われ、「源阿曾美新田貞善命」(阿曾美は朝臣の意)、また「新田氏源朝臣貞善大人命」と諡号された。 後継新田貞觀(旧由良貞觀)は弟である。
以上、「新田家記録」などにより抽出。(新田義和 責)