日本丸
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日本丸(にっぽんまる)は船名である。この船名を持つ船はいくつかあるが、国土交通省(現在は同省所管の独立行政法人航海訓練所)航海練習船の日本丸がよく知られている。この日本丸は1930年(昭和5年)に進水し、約半世紀にわたり活躍した帆船である。1984年(昭和59年)に引退し、航海練習船としての役割を日本丸II世に引き継いだ。
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[編集] 日本丸(練習帆船)
文部省(後の文部科学省)航海練習船「日本丸」は1930年(昭和5年)に進水した帆船である。総トン数は2278トン、帆装型式は4本マストのバークに分類される。姉妹船に海王丸がある。 1984年(昭和59年)に現役を引退し、その後横浜市の横浜マリタイムミュージアムにて展示公開されている。
[編集] 歴史
1927年(昭和2年)3月、鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」は千葉県銚子沖にて暴風雨のため沈没、乗組員および生徒の合計53名が全員死亡するという惨事が発生した。この事故が契機となり、1928年(昭和3年)大型練習帆船2隻の建造が決定された。2隻の建造費は合計182万円、当時の国家予算(軍事費および国債費を除いた一般会計予算:約8億7千万円)からすると破格の大型プロジェクトであった。
設計はスコットランドのラメージ・エンド・ファーガッソン社、建造は神戸の川崎造船所が担当した。1930年(昭和5年)1月27日に進水した第1船は「日本丸」、同年2月14日に進水した第2船は「海王丸」と名付けられた。同年3月31日には艤装を終え、文部省に引き渡された。この年にはミクロネシアのボナペ島へ初の遠洋航海を行っている。
その後、太平洋を中心に訓練航海に従事していたが、太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)に帆装が取り外され、大阪湾、瀬戸内海などの輸送任務に従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として25,428人の引揚者を輸送した。その後、帆装の再取り付けがなされ、1953年(昭和28年)春にはハワイに向け、戦後初の遠洋航海を行った。
1984年(昭和59年)9月16日の退役まで、約183万kmを航海し、約11,500名の実習生を育てた。その後、海洋練習船としての役割は後継の日本丸II世が担っている。
[編集] 主要諸元
- 船種(帆装型式) 4檣バーク型帆船
- 総トン数 2278トン
- 全長 97m
- 全幅 13m
- メインマスト高 46m(水面からの高さ)
- 吃水 5.3m(平均)
- 総帆数 29枚
- 定員 138名
- 他 ディーゼル機関による機走可能
[編集] 日本丸II世(練習帆船)
日本丸の後継として、1984年(昭和59年)に日本丸II世が就航した。日本丸II世は帆装艤装設計から製作まで、すべて日本国内で行われた初の大型帆船である。 先代の日本丸に比べて帆走性能が大幅に向上しており、世界でも有数の高速帆船として名をつらねている。その年で最速の帆船に贈られる「ボストン・ティーポットトロフィー」を1986年,1989年,1993年と三回受賞している。
なお、日本丸II世と姉妹船の海王丸II世(1989年就航)を見分けるための大きな違いは、舳先にある船首像である。日本丸II世の船首像は手を合わせて祈る女性の姿をしており、「藍青」と名付けられている。海王丸II世の船首像は横笛を吹く女性で、「紺青」と名付けられている。
[編集] 主要諸元(日本丸II世)
- 船種(帆装型式) 4檣バーク型帆船
- 総トン数 2570トン
- 全長 110.09m
- 全幅 13.80m
- メインマスト高 43.5m(船楼甲板からの高さ)
- 喫水 6.57 m
- 総帆数 36枚
- 最大搭載人員 190名
- 他 ディーゼル機関(2基)による機走可能
[編集] 文禄の役の日本丸
古くは文禄の役に参加した大安宅船である九鬼水軍の「日本丸」がある。当時の九鬼水軍当主九鬼嘉隆自らが設計にあたり、元の名は「鬼宿(きしゅく)丸」と呼ばれていたが、その偉容に感じ入った豊臣秀吉により「日本丸」と命名されたといわれる。兄弟船に「波切丸」(なきりまる)など同型艦が数隻有った。異説では、九鬼嘉隆は織田信長の命により世界最初の鉄甲船を数隻作っており、その中の1隻がこの日本丸であるともされるが、この説では信長による命名となる。大きさは全長は151.5尺(約46m)、全幅29尺(約9m弱)、千五百石積み、百挺櫓で将士・水主(かこ)を合わせて180人が乗り組んだというが、大きさについては全長十五間(約27m)、幅五間(約9m)との異説もある。甲板上に三層の楼閣を設け、大筒を三門備えた当時としては類を見ない巨船であった。帆は順風の時のみに使用し、漕走を主とした。文禄の役では九鬼水軍の旗艦として数度の海戦に参加している。同役では多数の船舶が失われたが日本丸は生き残り日本に帰還している。のち鳥羽に回航され、江戸時代には鳥羽藩の持ち船となって1856年まで残存した。
[編集] その他の日本丸
[編集] 東洋汽船
明治時代には東洋汽船所有の汽船「日本丸」がある。イギリスで建造された。サンフランシスコ航路の貨客船として1898年(明治31年)より就航した。1904年(明治37年)には海軍に徴用され、75mm砲2門などを搭載し特設巡洋艦(仮装巡洋艦)として日露戦争に参加した。日露戦争では日本丸を含む27隻の仮装巡洋艦が参戦したが、哨戒などの任務が多く戦没は無い。
[編集] 商船三井客船
商船三井客船は、クルーズ船「にっぽん丸」を運航している。現在は3代目が就航中。初代は「あるぜんちな丸」を改装し「にっぽん丸」とし、青年の船などの航海で活躍した。2代目は赤塚不二夫のひみつのアッコちゃんでアッコの父が船長を務めた船のモデル。
- 全長166m、全幅24m
- 総トン数 21,903トン
- 巡航速力 18ノット