日系ブラジル人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日系ブラジル人(にっけいブラジルじん)は、ブラジルに移民として渡った日本人の子孫である。ブラジルは世界最大の日系人居住地で、現在約150万人の日系人が住む。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 日本からブラジルへの移民
ブラジルへの正式な移民は、1908年に神戸港を出港した笠戸丸に始まる。当時、土地が有り余るブラジルでは農業労働者が不足しており、日本の農村は貧しく、大日本帝国政府が海外への移民を奨励したものの、それまで最大の日本人移民の受入国であった米国における日系人に対する人種差別の激化と、それに伴う黄禍論の勃興などにより日本人移民の受け入れを実質禁止したこともあり、ブラジルが最大の日本移民受入国となった。日本人移住者の多くは、多くの移民船の最終目的地となったサントス港を外港とするブラジル最大の都市であるサンパウロ市周辺のコーヒー農園で働き、現在もサンパウロの日本人街「ガルボン・ブエノ」を中心とするサンパウロ周辺に日系人が多い。
第二次世界大戦ではブラジルは日本と国交を断絶し、日本語新聞や日本語学校を禁止した。戦後には、在留する日系人の間で、日本の敗戦を受け入れたものと受け入れないもの同士による分裂、いわゆる「勝ち組」と「負け組」の問題が発生した。
戦後もアルゼンチナ丸などの移民船で移民した日本人は多い。移民総数は25万人に達し、その子孫である2世、3世は、その勤勉さと教育程度の高さから社会的地位が高い職業についているケースが多く、政・官界、経済界、医者、弁護士、教員、芸術・文化等を含む広範な分野に進出している。現在ブラジルの最高学府と言われるサンパウロ大学の学生のうち、約一五パーセントが日系人の子弟であるが、一パーセントに満たない日系人の人口比からみて、それがいかに高いものかがわかる。現在は4世、5世も誕生し、完全にブラジル社会に同化している。
[編集] 日系ブラジル人の日本出稼ぎ
しかし、1970年代以降、ブラジルは激しいインフレーションに見舞われるなど経済的苦境が続き、日本は高度経済成長を遂げたために移民の流れは逆転した。特に1990年に日本の出入国管理法が改正され、日系人の無制限の受入を始めると、多数のブラジル日系人が日本へ出稼ぎにくるようになった。現在でも日本に滞在する日系ブラジル人は約30万人とされる。群馬県太田市や邑楽郡大泉町と静岡県浜松市などの期間労働者を多数雇用する工場地帯に多い。
[編集] 出稼ぎ者の子弟の就学問題
日本の公立学校は外国人学齢期子弟の受入れをおこなっているものの、それら子弟は日本語が話せない者が多く、また、ブラジルの習慣を熟知しポルトガル語を使って学校生活をフォローできる人材が少ないなどの理由から、日本の学校に馴染めず不就学となるケースが多い。 日本国内にはブラジル政府が認可するブラジル人学校も存在するが、ブラジル本国からの支援はせいぜい図書の寄贈程度である。 2000年頃から、こうした若者の一部が疎外感を求心力に集結し、非行にはしるケースが見られるようになってきた。これらを受け、自治体においてはブラジル人教員の採用、不就学児童生徒の実態調査、NPOを活用した教育機会の提供等、教育対策が徐々に進められてはいるが、条件の良い職場を求めて転々とする親側の事情もあり、満足の行く対応は難しい。
[編集] 著名な日系ブラジル人
[編集] 1世
- チヅカ・ヤマザキ(ブラジルの映画監督)
- コケイ・ウエハラ (サンパウロ大学工学部教授 水力学)(pt)
[編集] 2世
- セルジオ越後(日本のサッカー解説者)
- 小野リサ(ボサノヴァ歌手)
- ルイス・グシケン(ブラジル大統領府広報行政調整長官)
- アルフレッド・コジマ(プログラマー。Window Maker作者)
- カシオ・タニグチ(元クリチバ市長。ブラジルの州都で市長になった初の日系人)
- カルロス・トシキ(日本の歌手・オメガトライブ)
[編集] 3世
- エリカ・アワノ(ブラジルの漫画家)
- ジュリアナ・イマイ(ブラジルのモデル)
- サブリナ・サトー(ブラジルのグラビアアイドル)
- ダニエーリ・スズキ(ブラジルの女優)
- 田中マルクス闘莉王(サッカー選手、現在は日本帰化)
- 松元ユウイチ(プロ野球選手、現在は日本帰化)
- マルシア(日本の女優・歌手)
- 南かなこ(日本の歌手)
- ロドリゴ・タバタ(サッカー選手)
- 玉木重雄(プロ野球コーチ)
[編集] ?
- トシコ・エガシラ(ブラジルで日本の特撮作品とアニメ作品を普及させたことで知られる)
- カルロス・タケシ(ブラジルの俳優・声優)
- カルロス・エドゥアルド・モリモト(プログラマー。Kurumin Linux作者。Linux系OSのプログラムで著名)