本木昌造
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本木 昌造(もとぎ しょうぞう または もとき しょうぞう(未詳、後段参照)、文政7年6月9日(1824年7月5日) - 1875年9月3日)は江戸幕府の通詞、教育者である。諱は永久、幼名作之助または元吉。異表記に昌三、笑三(或は号とも(曲田(1894)))、咲三。
通詞の家系へ養子に入り、幕府の通詞をする傍ら、西洋の興味から操船、造船、製鉄、活字製造などに関わった。また、明治維新後職を失くした武士への授産施設として私塾を開き、そこの一事業であった活字製造は、のちに独立して築地活版へと繋がった。私塾の関係者より、築地活版の創設者であり石川島造船所の創設者でもある平野富二、横浜毎日新聞の創設者である陽其二がいる。
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[編集] 生涯
本木家系図
- 本木庄太夫(栄久)
- 本木仁太夫(良固)
- 本木仁太夫(良永、養子)
- 本木庄左衛門(正栄)
- 本木昌左衛門(久美)
- 本木昌造(永久、養子)
- 本木小太郎
文政7年、長崎に生まれる。生家は本木家の親戚である北島家、若しくは馬田家とされる。11歳(天保5年(1843年))のとき本木昌左衛門のもとへ養子に出される。本木家は平戸のポルトガル通詞に始まるオランダ通詞の家系で、本木の二代前の正栄は、英和や仏和の辞典を作っている。本木家へ行った後はオランダ語を学び、オランダ舶来の書物によく接して西洋の技術に強い関心を寄せた。父の職を襲ったのち、嘉永6年(1853年)にロシアの使節エフィム・プチャーチンが長崎へ来航し、翌安政元年(1854年)下田に向かった件で、下田での条約交渉の通詞を担当した。11月に彼らの乗艦が嵐により破損すると、ロシア側との交渉を取り持ち、無事に建造せしめるなど、通訳以外への仕事へも強い関心を保っていた。
同元年投獄される。嫌疑は蘭通弁書の印行の咎、英和辞書を印行しようとした咎、他人の罪の身代わりなど定まらない。出獄して謹慎となった本木は、パンチ父型の製造などに取り組むが、技術の未熟や材料の不足もあって成功しなかった。万延元年(1860年)11月、飽浦の長崎製鉄所の御用係に任命され、イギリスより蒸気船を買い入れ、自ら船長となり文久元年(1861年)や元治元年(1864年)などに江戸などへ航海をした。後年の弟子平野富二とは、機関士として同船することもあった。寸暇を見ては活版印刷を考え、また、長崎版の印行に関係した(関与のほどは不明)。
本木は長崎町版と呼ばれる、安政6年(1859年)の『和英商賈対話集』、翌万延元年の『蕃語小引』を、名義を藉りて印行している。前者は欧文が鋳造活字、さらに和文を整版で併せたもので、後者は和文欧文ともに鋳造されたものであった。それ以前、嘉永4年(1851年)に流し込み活字を作り、「蘭和通辨の事を記せし一書」を印刷したと伝えられるが、これは、『蘭和通辨(弁)』を印刷したものともされ、或は訛伝で長崎町版の一書を指すとも云われる。
1869年、長崎製鉄所附属の活版伝習所を設立し、同年フルベッキの斡旋で美華書館のウィリアム・ギャンブル(ガンブル) Gamble, William から一同に活版印刷のために活字鋳造及び組版の講習を受けた。このとき、美華書館から5種程度の活字も持ち込まれた。川田(1949)ではこの伝習は69年6月のこととするが、小宮山(2000)では11月より翌3月までとする。
70年、同所を辞し、吉村家宅地(ただし吉村家屋敷を長州藩の者がたびたび使用したため萩屋敷ともいったという)、若しくは長州藩屋敷に武士への授産施設や普通教育の施設として新街新塾を設立する(ただし、陽其二が設立したものを引き受けたとの異説がある)。この塾の経営で負債が溜まり、解消の一助に新街活版製造所を設立した。ギャンブルの活字にはひらがなはなく新たに開発する必要があった。その版下は池田香稚に依頼されたものであった(この字を「和様」と呼ぶことがある)。同年、小幡正蔵、酒井三蔵を送って大阪に支所を作り(後の大阪活版所)、72年、小幡と平野を東京に派遣し長崎新塾出張活版製造所を設立させた(後の築地活版)。本木は新塾の経営が苦しくなると、製鉄所での業績回復の実績のあった平野に活版製造所の経営を任せ、平野は見る見るうちに業績を回復した。また、陽を神奈川に送り、横浜毎日新聞を創刊させたり、池田らとともに長崎新聞を創刊したりした。
72年、『学制』が施行されるが、それに従わず、県からの圧力で74年ごろに新街新塾を閉鎖させられる。75年から病床につく回数が増え、夏に京都へ旅に出た後病状は悪化し、9月3日、死去。彼には一子小太郎があったが、彼の没後平野の後見するところとなった。本木のほかにも、大鳥圭介や島霞谷、日本初の電胎母型による活字を製造した三代目木村嘉平など、さまざまな人が自身での日本語の活字開発に取り組み、或者は一定の成果を得、或者は中途に挫折するが、結局は、本木らによりウィリアム・ギャンブルから伝来された西洋式活版術が市場を覇していくことになる。
[編集] 「もとぎ」か「もとき」か
本木の発音については、「もとぎ」または「もとき」の二説があり、どちらも本木家の先祖によるローマ字書きに根拠が求められており、確かとしがたい。
[編集] 号数活字の大きさは鯨尺によるものか
号数活字の大小の関係は、初-二-五-八、一-四-七、三-六の三系統に分かれるが、これらの系統には相互の倍数関係がなく、理由もはっきりしていなかった。そこで、その制定を巡ってさまざまな解釈がなされてきた。たとえば、築地活版によるスモールパイカをもとに基準にしたという説、三谷幸吉による鯨尺基準説、小宮山らによる輸入説である。
築地活版は、この号数活字の大きさの由来を明らかにしてこなかったが、明治末期にポイント活字を普及させようとするころにいたって、「欧米ではパイカ pica サイズが主流だが、日本字には大きすぎるため、一回り小さいスモール・パイカ small pica サイズを五号として、それを基準に、本木は整然とした倍数関係を作りあげたが、複製したり、各社で混乱したりしていくうちに崩れた」との旨発表し、その説明がひろく受け入れられていた。しかし、三谷幸吉が『本木昌造平野富二詳伝』(本木昌造平野富二詳伝頒布刊行会、1933)にて「本木の自筆記事によれば、鯨尺の一分を基準に、2厘5毛乃至5厘の間隔で大きさを定めたのである」との旨著し、「外国の基準に由ったのではない」とすると、日本独自の測り方によっているということやその検証から、疑問を持つものはあっても多くの印刷史の研究書や規格に援用された(JIS Z 8305など)。しかし、小宮山博史は「導入期明朝体活字稿」(『タイポグラフィックス・ティ』138号、日本タイポグラフィ協会、1991)などの論考で、美華書館の活字との比較検討から美華書館の活字をそのままいれ、その後整備されて今の形になったと結論付け、三谷の説に賛同するものは減っていった。ただし、小宮山の号数活字はフルニエ・ポイントに従うものだ、という説には、美華書館がポイント・システムを導入していた証拠はないとする異論も見られる。
[編集] 参考文献
- 曲田成『日本活版製造始祖故本木昌造先生小傳』東京築地活版製造所、1894。
- 川田久長『活版印刷史』印刷学会出版部、1949。
- 小宮山博史「明朝体、日本への伝播と改刻」『本と活字の歴史事典』印刷史研究会編、柏書房、2000。
- 府川充男「和文鋳造活字の「傍流」」『本と活字の歴史事典』印刷史研究会編、柏書房、2000。
- 印刷博物館『活字文明開化–本木昌造の築いた近代』2003。
- 印刷博物館『年報 2003』2003。