東久世通禧
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東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ、天保4年11月22日(1834年1月1日) - 明治45年(1912年)1月4日)は、江戸時代末期・明治時代初期の公卿、政治家。
天保4年11月22日、東久世通徳(ひがしくぜ みちなる)の子として京都に生まれる。東久世家は、村上源氏久我家の分家。少壮の公家として、幕末の朝廷で尊皇攘夷を唱え活躍した。しかし、文久3年(1863年)八月十八日の政変によって、朝廷の実権が尊皇攘夷派から公武合体派に移ると、長州藩兵に守られ、三条実美、三条西季知、澤宣嘉、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳とともに船で長州へ逃れた。このことを世に「七卿落ち」という。長州から、更に太宰府に移された。
明治維新後、復権を果たし、外国事務総督、神奈川府知事、開拓使長官、侍従長などを歴任する。明治4年(1871年)岩倉具視を全権とする岩倉使節団に随行し、見聞を広める。明治15年(1882年)元老院副議長。華族令施行に伴い、明治17年(1884年)伯爵に叙される。明治21年(1888年)枢密顧問官。明治23年(1890年)貴族院副議長。明治25年(1892年)枢密院副議長を歴任した。