松平忠恒
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松平 忠恒(まつだいら ただつね)は、江戸時代の大名。陸奥桑折藩の第3代藩主。上野篠塚藩、上野上里見藩、上野小幡藩の初代藩主。
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 享保5年(1720年) | |||
死没 | 明和5年11月8日(1768年12月16日) | |||
別名 | 定太郎(幼名) | |||
戒名 | 徳翁義光大謙院 | |||
官位 | 従五位下、大蔵少輔、宮内少輔、摂津守 | |||
藩 | 陸奥桑折藩→上野篠塚藩→上野上里見藩→ 上野小幡藩 |
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氏族 | 奥平松平家 | |||
父母 | 父:松平忠暁 | |||
子 | 松平忠福、大久保忠恕、娘(内藤信凭室) 娘(松平乗佑養女)、娘(松平忠順室) 娘(本多忠昭室)、娘(桑原盛員養女) |
1720年、陸奥桑折藩第2代藩主・松平忠暁の子として生まれる。1734年に叙任し、1736年の父の死去により後を継いで藩主となった。1747年3月に奏者番となり、同年7月に上野篠塚藩に移封。9月には寺社奉行を兼任することとなる。1748年8月には上里見藩に移り、同年10月には若年寄にまで栄進した。1767年閏9月28日に小幡藩に移封されたが、翌年11月8日に死去。後を子の忠福が継いだ。