桂昌院
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桂昌院(けいしょういん、1624年(寛永元年) - 1705年8月11日(宝永2年6月22日))は、江戸時代の幕府3代将軍徳川家光の側室である。徳川実記に拠れば、父は八百屋仁左衛門(養父は本庄宗利)、母は鍋田氏の娘。子に5代将軍となる徳川綱吉。名はお玉。
京都で産まれる。若い頃は町人たち誰もが、目を奪われる程の美人だったらしい。後に母が関白二条光平の家司である本庄資俊と再婚したため資俊の養女となる。1639年(寛永16)に御小姓として家光の側室のお万の方に仕え、その際に春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側室。1646年(正保3)に綱吉を産み、1651年(慶安4)に家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。4代将軍徳川家綱の死後、1680年(延宝8)に綱吉が将軍職に就くと江戸城三の丸へ入り、権勢を振るう。男子の生まれない綱吉に対し、帰依していた亮賢に僧の隆光を紹介され、生類憐みの令発令に関わったとされる。ちなみに綱吉の正室の鷹司信子とは仲が悪かったらしい。
1702年には女性最高位の従一位の官位を賜り、藤原宗子という名前も賜った。1705年に82歳で没する。
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