正力亨
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正力 亨(しょうりき とおる、1918年10月24日 - )は日本の実業家。読売新聞グループ本社取締役社主。読売巨人軍取締役名誉オーナー。正力松太郎の長男。慶應義塾大学経済学部卒業。プロ野球ファンの一部からは父の「大正力」と比べて「小正力」と呼ばれるが、無論、誉め言葉ではない。
[編集] 略歴
[編集] エピソード
- 小林與三次、務台光雄、渡邉恒雄と権力闘争の鬼たちに挟まれたが彼らとは一線を隔している。辛口コラムニストには「(プロ野球の父と呼ばれた正力松太郎の子供であるため)正力亨こそプロ野球デアル」と揶揄された存在である。
- ドラフト会議前日の1978年11月21日、巨人は江川卓との電撃契約を発表した(「空白の一日」事件)。
その日のうちにセ・リーグ会長の鈴木龍二はこの契約を無効だと却下したが、当時オーナーだった正力は「この契約が無効だと言うのなら明日のドラフト会議はボイコットする」と宣言し、本当に翌日のドラフト会議を欠席した。この時江川を1位指名したのは阪神だったが、この結果に対し正力は「(巨人が出ていないから)全球団が揃わずに行われたドラフト会議のため無効である」と騒ぎ立てた。
勝手に欠席しておいて後から無効であると開き直る正力の身勝手な振る舞いは「殿、ご乱心」と揶揄され、当時読売の最高実力者だった務台が入院中で不在時に引き起こした出来事だったため、読売新聞社内からも批判の声が上がった。
この後退院した務台が伊豆で落としたカミナリは伝説となった。務台の正力への不信感は益々募る結果となり、江川嫌いにも拍車がかかる。 - 長嶋茂雄を最も愛した読売関係者の一人でもある。第1次監督時代にベンチの裏から「長嶋君、バントだ」と子供のように指示を出したという噂は根強い。しかし1980年、3年連続リーグ優勝を逃した長嶋に対する批判が読売新聞社内、マスコミ、OBの間から高まると、これまで長嶋を庇護してきた正力は自分の地位を守るために長嶋を解任し、後任監督に慶應の後輩でもある藤田元司を据えた(読売社内でも巨人軍でも正力は慶應OBを重用しており、ドラフトでは上田和明や大森剛といった慶應の選手を1位指名している)。
ところが長嶋が解任された途端、マスコミが手のひらを返すが如く「長嶋ラブコール」を送り始めると正力までがムードに乗り長嶋へのラブコールを送り始めた。
長嶋ファンやマスコミからの誹謗中傷にも耐えていた藤田もさすがに正力の身勝手な言動には堪忍袋の緒が切れたようで、単身オーナー室に乗り込み「私のことが不服なら、私は1年で辞めます!!」と啖呵を切っている(以後、正力の長嶋へのラブコールはぴたりと止んだ)。 - 王貞治の監督としての能力を高く買い、王監督が1988年限りで退任した際報知新聞の記者に「君、王君に言ってくれないか。僕は王君にもう1度監督をさせたかったと」と語ったと言われている。
- 務台の死後に渡邉が読売新聞社社長に就任し、マスコミに露出する機会が増えていったのに比例するかのように、正力がマスコミに登場する機会は少なくなっていった。1996年12月には長年務めた巨人オーナー職を退き、名誉オーナーに祭り上げられた。
- 2006年2月10日、前日74歳で死去した藤田の自宅へ弔問に訪れ、巨人再建に尽くした故人の冥福を祈った。2月15日に巨人と藤田家の合同葬として営まれた葬儀・告別式にも参列した。
- 王が巨人監督としてリーグ優勝を果たした1987年にホテルの一室でベッドの上で飛び跳ねて優勝を喜ぶという行動が目撃されるなど、その言動から「変人」扱いされることもあったが、『巨人という幻想』(東邦出版、ISBN 4809405052)の著者である宮崎満教(元内外タイムス記者)は「正力は純粋に巨人のことが大好きだった」と評している。