永田雅一
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永田 雅一(ながた まさいち、1906年1月21日 - 1985年10月24日)は昭和初期から後期(1930年代後半-1980年代前半)の映画制作者、プロ野球オーナー、馬主。長広舌の「永田ラッパ」で知られる。
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[編集] 来歴・人物
京都府に生まれる。父は熊本県出身、母は東京都出身。少年時代は非行に走り、一時、京都のやくざ「千本組」に籍をおいた。大倉高等商業学校(現・東京経済大学)を中退。マキノ兄弟との縁から1925年日本活動写真(日活)京都撮影所に入所し、映画人としての道を歩む。戦後、河野一郎や岸信介との交流から、一時政界のフィクサーとなっていた時期があった。
[編集] 映画界の父
1934年、日活を退社。第一映画社を創立、1936年同社が解散するまで自前のスタジオにて映画を製作している。解散後は松竹の大谷竹次郎(松竹創業者。大谷信義現社長は孫にあたる。)の知遇を得て、俳優達を引き連れて大谷が経営する新興キネマの京都撮影所長となる。竹中労の「聞書き アラカン一代」によると撮影所所長の職は第一映画社を解散する前に約束されており、そもそも第一映画社の投下資本は「松竹」の出資であったとしている。大谷の実弟である白井信太郎(新興キネマ)をバックにつけて、日活の分裂に動いた永田がそのまま大谷の傘の下に入ったとしており、汚れ仕事を受け持つ別働隊であったと暴露している。
永田の泣きの芝居の一週間前には東宝から金を引き出していた日活の堀久作常務(当時。後に社長)が逮捕され、日活と東宝の提携が調印後、壊されている。何もかも日活配給網を得んとする松竹の野望から始まり、小林一三(阪急東宝グループ創業者)の「大東宝」構想との衝突が根本にあったとされる。1942年、政府の勧奨で映画会社が統合される際に、業界が東宝ブロックと松竹ブロックに二分されて統合される事を知ると、当局に掛け合って新興キネマと日活を軸とした第三勢力による統合を認めさせ、「大日本映画製作(大映)」の成立に成功。この立案をした情報局第五部の第二課長に贈賄をしたという噂は当時から残っている。成立と同時に作家の菊池寛を同社社長に担ぎ出し、自らは専務に就任。1947年には社長となる。
1951年、『羅生門』のヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞を契機に『源氏物語』『雨月物語』『地獄門』等の国際的に名声を得た大作を手掛ける一方、70ミリ映画『釈迦』も手掛けた。多数の証言が一致する点では、永田は『羅生門』は製作立案の段階で無関心であった。グランプリ受賞の報に狂喜乱舞する新聞記者たちに「で、グランプリってのはどのくらい凄いんだ?」と聞きなおしたが、その後は自分の功績を並べ立てたのはいうまでもない。黒澤へ顕彰の証を渡さず大映本社に飾った永田に対して当時の狂句はこう揶揄している。「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」。
大映全盛期には異例の5割配当を行うなど、自身の手掛ける作品には絶対の自信を持ち、それ故プロ野球以外の副業には殆ど関心を示さなかった。映画の製作・配給は行っても、興行はほとんど既存の地方興行主に任せており、直営の映画館は皆無に近かった。東宝の小林一三も「君はグランプリ・プロデューサーだから興行みたいなチマチマしたことはせずに製作すれば必ず僕のところで上映しよう。」と言ったとされる。無論、口約束だったのはいうまでもない。
1953年には、松竹、東宝、東映、新東宝に呼びかけ五社協定締結を主導。各映画会社に所属する技術者や俳優の他社への出演を原則禁止した。五社協定は1954年に戦前の映画制作を再開させた日活への対抗策として発足したが(1961年に新東宝は倒産)、新たに日活も加わって、悪名高き五社協定が確立した。大映の看板スターだった山本富士子や田宮二郎は永田との確執から大映を退社。また日本テレビ創立の際に出資し、フジテレビには親会社の一角として経営に参加していたものの、余りテレビには関心を示さなかった。
このため、1960年代後半からの日本映画界の急激な斜陽と不振の中で、殆ど製作本位で大作主義だった大映はジリ貧に追い込まれ、「永田ラッパ」と呼ばれたワンマンな放漫経営、長谷川一夫の引退、上記の五社協定による山本・田宮の退社、市川雷蔵の急逝(1969年)、大型新人スター不在もたたり、ついに1971年12月23日、大映倒産。それでも、永田は1976年に永田プロダクションを設立。同年、大映作品の映画『君よ憤怒の河を渉れ』でプロデューサーとして映画界に復帰した。熱心な日蓮宗信者としても知られ、晩年には萬屋錦之介(中村錦之助)主演で映画「日蓮」を製作した。
[編集] パ・リーグの父
1947年末、アメリカ視察旅行から帰国した永田は大映作品のアメリカ市場進出のためには、自らがアメリカに名の通った存在でなくてはならない事を痛感。当時、アメリカで尊敬される名誉職の一つがプロ野球オーナーであり、また元々野球好きであった事から、永田もプロ野球チームを持つ事を決意する。たまたま、中日ドラゴンズの赤嶺昌志球団代表を慕っていた選手が脱退したことを知り、彼らと合同して大映球団を組織する。間もなく、国民野球連盟に所属していた大塚幸之助経営の大塚アスレチックスと合同した。
1948年1月、東急フライヤーズと合同して「急映フライヤーズ」を名乗るが、同年12月、別途金星スターズを買収して「大映スターズ」を結成。以降、本来は副業として球団経営に携わっていたのが次第にプロ野球も本業となり、ついに1953年パシフィック・リーグの総裁に就任。高橋ユニオンズの結成による8球団制の採用や、その高橋と大映の合併を契機とする6球団制への再編成と、いずれも球界再編成の主役となった。
その後大映スターズは1957年に高橋ユニオンズを吸収合併し、大映ユニオンズになった後、1958年に毎日オリオンズに吸収合併し、大毎オリオンズとなった。この時は毎日新聞社との共同経営ではあったが、オーナーに就任し「大毎」のネーミングも自ら付けた。その2年後の1960年、大毎オリオンズがパシフィック・リーグを制し、日本シリーズで三原脩監督率いる大洋ホエールズと対戦したとき、采配を巡って西本幸雄監督と意見が衝突。前評判に反し大毎はストレート負けを喫したため、怒りの永田は即刻西本を解任した。なお、このシーズン終了後に毎日新聞社より全面的に球団経営を移譲され、名実共にオーナーとなる。
「永田ラッパ」はここでも高らかに吹き鳴らされる。自らの映画会社のスターと同じ名前だからと「長谷川一夫」という名の選手を入団させたり、飯島秀雄を代走専門選手として採用したりした。だがチーム強化に大きく結びついたとは言い難く、あわせて現場への介入も多かったため、批判も受けた。だが欠かさず球場に作った神棚に選手の無事を祈るなど、チームに対する思いは確実にファンなどに届いていた。それが後述の「ファンからの胴上げ」につながる。
1962年には私財を投じて東京都荒川区南千住にプロ野球専用球場・東京スタジアム(東京球場)を建設、その開場セレモニーでは観客に対し「皆さん、パ・リーグを愛してください!」と絶叫。しかしその後、東京スタジアムはチームの不調も相俟って不入りで不採算が続き、読売ジャイアンツの正力松太郎オーナーが見かねて「巨人も試合に使ってあげよう。」と救いの手を差し伸べたが、「セ・リーグ、とりわけ巨人の世話になるのは御免だ。」とこれを固辞した。しかし現在、観客の入退場に対する利便性を図った設計などにおいて、東京スタジアムの先駆性は再評価されている。
1969年、遂に経営難で盟友・岸元首相の仲介によりロッテをスポンサーに付けたロッテオリオンズが、翌1970年、パシフィック・リーグ優勝を東京スタジアムで決めたとき、永田はグラウンドに乱入した観客達の手により優勝監督や殊勲選手よりも前に胴上げされ、永田は号泣しながら宙を舞った。1971年、大映の経営再建に専念するため、球団を正式にロッテへ譲渡。同時にオーナー職を中村長芳に譲った。無念の永田は記者会見で号泣。「必ず巨人を倒して日本一になってくれっ!」と泣き崩れながらコメントし、球界を去った。
そしてこの願いは1974年のパシフィック・リーグ、日本シリーズ優勝で叶えられることとなる。中日ドラゴンズとの日本シリーズ初戦、スタンドにはすでに完全に表舞台から姿を消していた永田の姿があった。グラウンドには永田時代を知るロッテ選手だけでなく、中日側にも与那嶺要、近藤貞雄といったロッテ在籍経験のある者たちが姿を見せていた。永田はその光景を「みんな僕のところにいた選手たちなんだ」と涙を流しながら見つめていたという。
1985年10月24日死去。享年79。1988年、野球殿堂入り。
[編集] 馬主として
1934年にサラブレッドを購入し、競走馬の馬主となる。永田と競馬との縁はこの時を嚆矢とする。10戦無敗で皐月賞、東京優駿(日本ダービー)を制し二冠を達成したが、破傷風にかかり悲劇の最期を遂げたトキノミノルの馬主でもある。「トキノ」とは馬主でもあった菊池寛の冠名であり、「菊池寛の夢が実る」という意味で改名されたもの(デビュー戦の馬名は「パーフェクト」)と言われている。後年、トキノミノルをモデルにした「幻の馬」という映画も製作している。他にも名牝クリフジの産駒で、桜花賞・優駿牝馬の2冠を勝ったヤマイチや、ダービー馬ラッキールーラの母トースト、天皇賞馬オーテモンなども永田所有だった。
勝負服は緑地に黒三本輪で、永田が競馬から手を引いてからはしばらく使われなかったが、現在はグリーンファームの勝負服として登録されている。これはグリーンファームが永田の遺族に氏のかつての勝負服を使わせてほしいと申し出て、遺族が承諾したという経緯がある。
[編集] エピソード
- 東京スポーツ新聞を経営していた時期がある。これは、同社の事実上のオーナーであった児玉誉士夫と親交があったことによるもの。東スポは永田の手腕により全国紙へと成長した。なお、プロ野球・国民リーグの大塚アスレチックスから金星スターズを経て大映スターズの経営に携わった大塚幸之助は、最晩年東スポの監査役を務めていた。
- 当初日本におけるペプシコーラ事業の代表者であった。永田が日本での販売会社を設立し、上掲の大塚幸之助が総支配人を務めていた。映画館で売ってるコーラはペプシとよく言われたのはこの所以。ちなみに、今は亡き東京スタジアムの残された写真をよく見るとペプシとミリンダの大広告が見える。
- TBSラジオのディレクター・プロデューサーを歴任した永田守(主な担当番組「コサキン怪傑アドレナリン」「伊集院光 深夜の馬鹿力」など)は孫。
- 市川雷蔵の夫人(一般人)は永田と養子縁組関係にあった。
- 武州鉄道汚職事件で武州鉄道の発起人に名をつらねていたので贈賄罪で逮捕された。