汎アラブ主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
汎アラブ主義 (Pan-Arabism)は、中東における国家を超えたアラブ民族の連帯をめざす思想運動。アラブ民族主義ともいう。
起源は、第一次世界大戦期。ヨーロッパによる帝国主義支配に抗して起こった、民族自決運動のひとつである。1940年代に、シリアで汎アラブ主義のバアス党が結成される。
理論的には社会主義にアラブ独自の民族主義が混ぜ合わされたものである。そのため、ときには理論的な整合性に乏しい事もあり、例えば私有財産の否定・企業の国有といった社会主義の政策はほとんど不徹底であった(わずかに接収した外国石油企業、セメント工場・化学工場等の重工業やエネルギー産業など大企業に国有化が見られたのみであった)。そして、特に宗教との関わり合いは極めて曖昧なものであり、これがイスラム原理主義との摩擦を生む原因となった。
また、権力闘争やイスラエルの建国といった現実の問題も汎アラブ主義の浸透を困難なものに変えた。後述のアラブ連合共和国では建国直後から権力闘争が勃発し、官僚・軍人においてエジプト出身者とシリア出身者の諍いが生じた。この内紛はエジプト側の勝利に見えたが、ハーフェズ・アル=アサド前大統領率いるシリア出身の軍人グループによってクーデターが発生。シリアがアラブ連合から離脱する形で同連合は崩壊した。イラクとシリアのバアス党では熾烈な権力闘争が巻き起こり、そこに既存の宗派間の対立が入り込んできた。こうした現実的・近視眼的な内部対立が頻発した事により、アラブ社会全体からは必ずしも支持が得られず、特にシリアではスンニ派はこうした汎アラブ主義に反発する事となった。
そして、草創期にイスラエル建国が重なった事により、汎アラブ主義は民族運動から反イスラエル闘争運動へ変質する。この事によって一時は思想が先鋭化するものの、それは対イスラエル関連のみであった。このため、論理化・整合の時間が得られず、特に経済・宗教問題はほとんどなおざりになってしまった。さらに、イスラエルにこうした汎アラブ主義のアラブ諸国が敗北を重ねるという事態も、民衆が汎アラブ主義に幻滅し、離れていく原因となった。しかし、汎アラブ主義が消滅したと言う訳ではなく、汎アラブ主義者による政治団体は現在でも各地で活動しており、アラブ連盟等を通じてアラブ諸国の連帯が模索されている。
[編集] ナセル
第二次世界大戦後は、エジプトのナセル大統領が汎アラブ主義を積極的に推し進め、エジプト-シリア間に、アラブ連合共和国を成立させたが、連合は長続きはしなかった。
アラブ諸国で汎アラブ主義路線をとった国は他に、リビア、チュニジア、モロッコなどがある。
ナセル大統領のアラブ連合共和国の実験が失敗に終わったのちは、汎アラブ主義は反帝国主義運動時代にもっていた熱気は冷めている傾向にある。しかし現在でも依然、汎アラブ主義的心情へ訴えかけつづけているのはパレスチナ問題であろう。
[編集] サダム・フセイン
近年、例外的に汎アラブ主義を全面にかかげ、欧米との対決姿勢を崩さなかったのは、イラクのサダム・フセイン大統領が率いるバアス党政権であった。この政権は、2003年、アメリカのブッシュ大統領によるイラク戦争に敗北し、党と政権は解体し、フセインは拘束された。
イラクの汎アラブ主義政権の中立的な歴史的評価が定まるには、何年も先のことであろう。
[編集] 汎アラブ主義とイスラム原理主義
なお、マスコミでさえしばしば誤解した報道をするが、民族運動である汎アラブ主義と、宗教運動であるイスラム原理主義は対立する概念である。
汎アラブ主義においてはイスラム教は「アラブ民族の誇る宗教文化の一つ」とされ、政治へのイスラム教の介入は忌避された。この事はキリスト教徒等の非イスラム教徒アラブ人が汎アラブ主義に参加している大きな理由である。また、シリアの故ハーフェズ・アル=アサド大統領の出身であるイスラム教アラウィ派の様に、イスラム主流社会たるスンニ派やシーア派(12イマーム派)から差別されたマイノリティーであっても参加する事ができる大きな理由となった。
しかし、これは明確な主張というよりは、無神論を訴える共産主義・社会主義と既存の民族主義の妥協の産物といえるものであった。アラブ諸国においてソビエト式の厳密な社会主義体制を取った国は、過去には旧南イエメン人民共和国(現・イエメン)しか存在していない。なお、これに対して旧北イエメン(イエメン・アラブ共和国)は王政が倒された後にナセルに強い影響を受けた汎アラブ主義国家が誕生しており(外交的には親サウジアラビア→親エジプト及びソビエト→親サウジアラビア及び旧西側諸国)、統一されるまでアラブ社会独特の南北問題が存在していた事になる。
このため、現実には宗教と政治を分離する明文に乏しく、伝統的に宗教の力が強いアラブにおいて発生した汎アラブ主義は政教分離に成功していないとされる。シリアでは大統領がイスラム教指導者から高位の宗教的身分を得た。この様にイスラム教との距離のおき方は成立以来の懸念材料であった。
しかし、神権を第一とするイスラム原理主義にとっては、イスラム教を表面的・形式的とはいえ減退させる汎アラブ主義とは対立せざるを得ない。エジプト、シリア等では早くからムスリム同胞団等による爆弾テロや要人誘拐・暗殺が起こり、シリアに至っては多数の無関係の一般市民を巻き込んだ弾圧に乗り出した。
1982年、シリアの大都市の一つでスンニ派社会の中心であったハマでムスリム同胞団による反政府暴動が発生し、シリアは大統領親衛隊、特殊部隊、空軍を動員してこれを強行に鎮圧。ムスリム同胞団ばかりでなく一般市民の多くが逮捕・拷問・処刑され、歴史的建造物やモスクを含むハマ市街そのものが砲撃や爆撃で破壊されるという大弾圧を行った(ハマ事件)。
(なお、シリアはアメリカからレバノンの原理主義組織「ヒズボラ」に対する支援が指摘されてテロ支援国家に指定されているが、これは同組織が掲げる反イスラエルという共通の利害の一致によるものと考えられる)